2024年
10月
10日
木
10月に入っても残暑厳しい休日の午後に、T-Joy東広島にて本作を鑑賞してきました。 現代社会の大型通販(アマゾンを想定?)会社においての謎多き怨恨・犯罪ミステリーです。
予告編で主人公である満島ひかりさんが印象的に感情を込めて抗議を叫んでいたことが印象的でしたが、得てしてこういうパターンは、実は彼女が真犯人の可能性高いんだよね~・・・なんて推測して観劇したのですが、大外れでした(汗)。
しかし、後半の事件の謎解きとラストシーンの主人公の仕事への決断の爽快さが素敵な作品で、わたしも観終えた後さわやかな気分でフジグラン東広島のなかを徘徊しました。
P.S.実は本作のタイトル「ラスト・マイル」を最初から最後まで「ラスト・スマイル」と勘違いしており、ラストシーンでの主人公の微笑が本作のテーマでばっちり決まっていた・・・と満足げに一緒に本作を観に行った娘に話していたところ、彼女から間違いを即座に指摘され、ラストに苦笑いしてしまいました(笑)。
2024年
9月
25日
水
予告編が印象的だったこともあり、9月のまだ残暑厳しい休日の午後に本作をT-Joy東広島にて鑑賞してきました。
それまでとくに目標や生きがいもなく、どちらか言えば器用に生きてきた高校2年生の主人公がひょんなことから絵画を描くということに生きる意味を見出し、どうせならそれを極めようということと家庭の事情で国公立大学しか進学できない状況もあり、実質競争率500倍ともいわれる超難関の東京藝術大学の油絵科をまったくの素人から目指すという物語です。
作中では現実の東京芸大のキャンパスや受験風景などが表現されているのですが、わたしのような芸術門外漢にはとても興味深く楽しませてもらいました。
また志望する学科は異なるものの大学進学において、家庭の事情で国公立大学しか許されなかったという環境はわたしにも覚えがあり、はてさてどんな展開がまっているのだろう?・・と興味津々での鑑賞となりました。
本作のなかで絵画を表現することを通して、人間関係(普通の人らはもちろん奇人・変人・変態・天才といろいろ興味深い人物らが登場してきます)を広げていく主人公に自分のこころをシンクロさせながら観ている自分がいました。 さまざまな人物が交錯するなかで、主人公を自分の目標を達成していく過程を観ていると、自分も分野は違えど同じような感覚があったことも思い出したりしました。
人は常に何かの目標を持ちながら、こころに熱狂と冷静を保ちつつ人生というフィールドにおける素敵な魔法を求めていくのだ・・ということを思い出させてくれた本作でした。
P.S.本作の世界にはまり、さらに詳細に知りたいと感じたので、その後アニメ版(全10話)もチェックしてみましたが、映画では省かれていたニッチで素敵なエピソードもしっかり描かれており、とても興味深くそちらも満足の出来でした。 それにしても最近は良い漫画というのはすぐにアニメ化される傾向が強くチェックすべきコンテンツが目白押しで時間がいくらあっても足りません(汗)。
2024年
9月
05日
木
本作を9月に入ったまだまだ残暑厳しい日曜日に観に行ってきました。
漫画としてすでに73巻を数える歴史大作「キングダム」。その映画版の第3作となります。本作は初期における最大の魅力的キャラ「王毅」が主役です。彼の若き頃の恋物語からその最期までを表現したまとまりのよい絵巻物。
劇画で巧みに表現された小宇宙のような素晴らしき歴史絵巻を実写でどのように表現するか興味津々のこころを抱き地元映画館T-Joy東広島に臨みました。
そしてあっという間の2時間15分。 いやはや溜息が出るぐらい素晴らしい映像化でした。 最初王毅としては小柄過ぎないか?・・・という疑問も芽生えた大澤・王毅。本作では、もうそんなこと露とも感じさせないぐらい役にはまりまくり堂に入っており、彼の最期のシーンはすでに漫画で何度も読んでいるにもかかわらず新たな感動が湧いてくるほどの出来栄えでした。サブタイトル「大将軍の帰還」も素晴らしく映画としての本作の本質を的確に表現していることが観終わって納得でした。
キングダム・・。司馬遷の「史記」(わたしも10代のころ横山光輝作の史記を読ませてもらいました)から掘り起こしたとはとても思えない豊かな物語となっており、「漫画は漫画、映画は映画」としてこの先も長く観ていきたいと思いましたが、本作で映画版は終了とアナウンスされています。
確かにこれだけ素晴らしい映像を製作するには雄大なロケ地、豪華ラインナップな俳優陣のコストなどを考えると一作一作が大ヒットにならねば予算的に存続することが難しいであろうことは想像に難くなく、原作にしても、王毅の死後の物語はしばらく小競り合いを中心とした小康状態が続くため、映画化は難しいかもしれません。(李朴の最期の物語なら作れそうですが、原作でもまだそれはだいぶ先のようです・・)
しかしそれでももしやあの大資本インターネット局・ネットフリックスならこの先を引き継ぎこのまま豪華ラインナップで映像化できるかも・・・なんという妄想を抱きながら映画館を出て9月なのにまだまだ暑い街の中に戻っていきました。
2024年
8月
13日
火
本作を灼熱の太陽がアスファルトを照り付ける真夏の昼に観に行ってきました。
昨年NHK大河ドラマでも取り上げられていた徳川家康・・。彼がもし総理大臣になったら、どう現代日本の国難に対処するかという非常にわかりやすいテーマであり楽しくキャッチーな作品でした。
織田信長はじめ足利義光、源頼朝、坂本龍馬、紫式部など日本史に輝く偉人(アヴェンジャーズならぬイジンジャーズです)たちが痛快に活躍する映画ならではの物語でした。 映画の中では彼らが気持ちよく活躍し、現代日本を痛快に立て直します。 そしてラストシーンでは世直しを成し遂げたのち、再び歴史の彼方に戻っていく姿が眩しく神々しかったです。
ふと気づいたのは、本作はおそらく、現在日本の低調かつ体たらくの状態を我ら日本の誇る歴史の偉人たちにでもなんとか解決してほしいという世相や想いから生まれた作品といえるのではないか? つまり本作は現代日本の政治家に失望している我々国民の失望の裏返しということなのです。
もちろん映画のようにこんなに痛快に日本が立ち直ればいいのですが、それはなかなか無理な話ではあります。
個人的に日本のここ数十年の低迷についてよく考えるのは、経済評論家・森永卓郎さんによる新聞・テレビなど各種メディアが全く取り挙げない隠れたベストセラー本「書いてはいけない」(なかなかお勧めの本なので未読であればぜひ読んでみてください)にも詳しいのですが、1985年の日航機123便の墜落事故の真相とその後の日本への影響です。 当時自衛隊による不測の事故とその後の国辱的事故隠ぺい工作という誤った作為、それを知りながら事故原因という泥をかぶってもらったボーイング社およびアメリカ側への大きな借りとその後の配慮・・・。
確かに事故の直後からアメリカから、理不尽な合意や協定とも呼べないような日本への一方的な圧力や政治的拘束が決定されています。「プラザ合意」「日米半導体協定」などの施策です。それに続く90年代のアメリカとの「日米年次教書」(アメリカからの一方的な我が国への要求かつ強制であり、これが郵政民営化の基です)にも同じ匂いを感じます。これらはその後の日本の国力の停滞~低迷へ強く繋がったことは間違いなく、日本の主権を無視した非常に悲しい政治的敗北でした。(もちろん当時決断を下したであろう中曽根首相の決断は完全に間違ったものであり悲しい決断でもあります。)
これら数々の政治的に不利な合意および決定が、弱みを握られた末のアメリカ側からの強制だったとすれば、この理不尽な強制力を徳川家康をはじめとした日本史のヒーローたちがどう解決するかを観たいところです。
おそらく家康らならば、もはや秘密とも言えないこれらの秘密をすべて正直に国民にさらして、アメリカへの弱みを少なくし、もう一度日本の主権を回復するという方向に進むと思うのですが、いかがでしょうか?
いずれにせよ本作を観て、徳川家康や歴史の偉人たちとはいかないまでも、近づく与党の総裁選を経て10月はじめには新たな総理大臣が決まると思いますが、新総理にはなんとかアメリカから本当の主権を回復するような意志を持ちそれを行動につなげれる方になってほしいと思ったりしました。
2024年
7月
19日
金
本作を7月の梅雨の合間に広島市内の八丁座にて鑑賞してきました。
実は久々の木曜日の休日、せっかくなので映画でも観ようと地元や広島市内の映画館をチェックしていたら、本作が目に留まりました。 わたしは残念ながら、加藤和彦さんの全盛期を同時に経験したリアルタイム世代ではなく、それよりも一世代下の世代なのですが、フォーククルセダーズ、サディスティックミカバンドといった歴史に名を遺す輝かしきバンドの名曲たちは解散後に遅ればせながら聴いた経験を持っています。 加えて「あの素晴らしい愛をもう一度」「悲しくてやりきれない」といった名曲の作曲、さらにプロデューサーとして、吉田拓郎さんの「結婚しようよ」での弦圧の効いたギターアンサンブル、泉谷しげるさんの「春夏秋冬」のギターとハーモニカを使った詩の世界を巧みに表現した音楽的空気感のち密さもとても印象に残る仕事だっただけに、加藤和彦さんのことはその不可解な死とともにいつも心の片隅において気になる存在でした。そんな彼の周囲にいた人たちによるドキュメンタリー映画ということで、やはり観ておこうという気になり、すでに一日一回だけの上映でしたが、急遽広島市内に出向きギリギリ観に行ってきました。
加藤さんを知る人たちの記憶の証言と残された映像や音楽を紡ぎ合わせるような構成でしたが、思いのほか非常に堪能させてもらいました。なぜトノバンと呼ばれたかも本作のおかげでやっと知りました。
加藤さんの豊かな音楽的才能はやはり当時ともに過ごした人々からしても圧倒に巨大であったこと、実はかなり音楽制作の際にはアドリブ的発想を重視していたこと、音楽だけでなくファッションや料理といった生活全般に対して高い意識を持っていたこと等々が当時関わって人々によってうまく表現されていました。
ソウルメイトと言える安井かずみさんとの再婚、そして数年後の死別。その後ほんの少しの低迷期を経てのフォークルの再結成やアルフィーの坂崎さんとのコラボ、その後の不慮の死。 なんだか才能がありすぎてこの世界がつまらなくなってしまったかのような意味深な遺言・・・。ひとりの同じ日本人としての稀有な人生を想像すると、切なくなりました。
彼の死は、生きていればその後も人々に与えたであろう影響を考えると残念でならないのですが、有り余る才能を持ち、その才能を適切に昇華させていくセンスは稀なものであり、本作を観てもう少し加藤さんの人生を深堀してみたくなり、ソロ当時のスタイリッシュなアルバムを買って聞いたり、映画と並行して販売されている本「あの素晴らしい日々」(表紙が本作のポスターと同じ写真で、サディスティックミカバンドのときの公演でのロンドン来訪時の自由闊達な姿と笑顔が魅力的です)も読むことにしましたが、お盆休みの楽しみになりそうです。
P.S.元祖フォークルのメンバーでもあり、「あの素晴らしい愛をもう一度」(本作で明かされた、なぜこの曲をふたりで歌うことにしたエピソードも秀逸でした)、「戦争を知らない子どもたち」、「風」などの作詞者である北山修さんは、同じ精神科医でもあり、数年前まではよく精神神経学会でもそのお姿や発言をお見かけることが多く医者としてもたいへん尊敬している方なのですが、本作のなかで北山先生のいまも凛とした姿、同志であった加藤さんへの想い、それを言葉で表現したコメントもさすが詩人らしく深い表現であり、個人的には出色の出来でした。北山修先生にはいつまでもお元気でおられることを願いつつ、できれば素敵な新作の作詞をまた聴いてみたいと思ったりしました。
また本作の企画を提案した高橋幸宏さんも本作の完成を観ることなく昨年亡くなられてしまいましたが、高橋さん自身のこのような映画企画を待ちたいものです。
2024年
7月
05日
金
本作を梅雨の真っ只中、雨のそぼ降る夜に、T-Joy東広島にて体験してきました。
言わずと知れたレゲエの神様ボブ・マーリーの伝記映画です。わたしも若き頃の一時期彼の音楽にはまったひとりなのですが、彼は音楽の面だけでなく、思想的にも宗教的にも人間的にもさまざまな面を持つ多角的で大きな存在であり、いまだにひとつの作品などで包括的には表現しがたい人であります。もちろんわたしもその辺の音楽以外の面についてはあまりよく知らない状態で時が過ぎてきました。なのでどんな切り口で彼を表現したのだろうという興味を持って映画館に足を運びました。
さて本作の切り口は彼の故郷ジャマイカ・トレンチタウン時代の絶頂期の音楽制作、人生を変えることになった地元でのライブ、その二日前に起こった暗殺未遂事件、余儀なくされた父親の出身地であるイギリスでの亡命生活、そこから生まれたスピリチュアルな名盤「エクソダス」のエピソード、自らのルーツ・アフリカに発するラスタファリアニズムへの傾倒、運命の病を交えながら、あくまで彼自身と家族(妻やその子どもたち)との絆を中心にシンプルに描かれていました。
しかしどんな切り口であれ、何と言っても本作は、物語のバックに流れる彼の音楽とグルーブ感が素晴らしく、映像と音楽を通して映画館を包み込むように幸せな空間に変えていました。
思い起こせばわたしもまだ若き学生時代、音楽やアングラ文化にのめり込んでいた時期に彼のイギリス公演の実況盤でもある、すでに誉れ高かった名盤「ライブ!!」を手に入れ、とことん聴き込んだ時期がありますが、あの「No Woman, No Cry」のもの哀しげでありながら、独特のグルーブを伴う力強さが溢れた音楽にはただならぬものを感じ、当時熱い生活のなかでBGMのように何回も繰り返し流していたことを思い出し、久々また聴きたいと思いました。 当時は他のものにも興味の方向が多方ありすぎ、彼の音楽の背景にはどんな物語が隠れているのかは深堀りせずに過ぎていましたが、本作によって少しだけ彼の音楽と人生に触れられたような気分になりました。
まぁそんな理屈などより「ボヘミアンラプソディー」のときもそうでしたが、アーティストの素晴らしい音楽そのものを直接大音響と大画面を通して五感で触れるということは本当に素晴らしく、梅雨でありながら久々に爽快感あふれる幸せな夜になりました。
2024年
6月
28日
金
本作を夏が近づきつつある休日にT-Joy東広島にて鑑賞してきました。
猿の惑星と言えば、元々はもう50年ほど前にアメリカにて最初の作品が制作され、自由の女神のラストシーンが衝撃的でさまざまな物議を醸しだした作品です。 我が国においては、しばらくしてその影響を強く受けた「猿の軍団」というテレビ作品が日曜日の夜7時半から8時まで放映されていました。この当時裏番組はあの名作アニメ「宇宙戦艦ヤマト」。そして午後8時から9時は「日本沈没」でありました。なんたる豪華ラインナップでしょう。
よく考えてみればどの作品も滅亡ものであり、世紀末を意識していた当時の趨勢が感じられます。わたしはと言えば、まだ小学生でありましたが、「猿の軍団」に登場する、人間たちを凌駕し狩猟し捕獲する猿たちに恐れを感じながらも、好奇心には勝てずテレビの前に釘付けになっていたものでした。
そんな長く続く歴代の「猿の惑星」のサーガ物と言える本作ですが、通算ではなんと10作めなんだそうです。
猿の世界を支配するシーザーとその支配に疑問を感じながら旅に出るノア。道中出会った人間の少女メイの冒険奇譚です。喪われた人類の技術を発掘する攻防が見どころですが、なんとラストシーンで、メイの出身地と思われる山の奥には猿への反抗を目論む人類の基地が・・。
ちょっと気になるのは元々猿の惑星に登場する猿たちは、当時世界に進出しイケイケどんどんだった日本人をモデルに想定してアメリカが作ったと言われていること。確かに当時は日本は経済的にはアメリカを一時的に凌駕していたのですが、現在ではすでにさまざまな失敗により50年前からみればずいぶん落ちぶれており、わざわざ反抗するべき標的ではないことが歴史の皮肉ではあります。
まぁ本作については、物語の内容がどうのこうというよりも、一体全体この先のドラマ展開はどこに向かってどこに至るかを見届けることが目的になっているような感覚であり、この先わたしもなんとか機会を作ってFollowしていく所存です。
2024年
6月
15日
土
本作をなかなか梅雨入りしない天気の良い日が続く初夏の夜にT-Joy東広島にて観てきました。
「陰陽師」といえば、かつてわたしが仕事をしだして間もなくの頃の作品で、元々は夢枕獏さんの小説を、岡野玲子さんが素晴らしいタッチで漫画化しており、平安貴族の雅な世界に跋扈する怨霊や鬼神、妖魔を調伏していく格式高いタッチの作品でした。
今回はその「陰陽師0」というわけで、晴明がまだ一人前の陰陽師になる前の物語であり、いわゆるビフォアストーリーです。
その後、ホームズとワトソンのような関係をつくることになる源博雅との出会いと絆を中心に物語は展開しますが、何より素晴らしかったのは、何と言っても平安京の風景、とくに陰陽寮の映像化だったような気がします。漫画でも描かれているのですが、モノクロで動きがないだけに映画化されて、それらが生き生きと表現されていることは素晴らしく映画館に足を運んだ甲斐がありました。
これを機に最近ご無沙汰している夢枕・岡野版の漫画(いまもクリニックのスタッフ控室に備えてある本棚のなかに立っています)も久々読み返そうかな~という気分になりながら、映画館を後にしました。
2024年
5月
30日
木
梅雨の気配がする雨の夜に本作をT-Joy東広島にて観てきました。
本屋に平積みされている原作「変な家」。ほぼ事前情報はなく不動産ミステリーということはわかるものの、どんな内容かはまったく想像がつかない作品でした。
観終わって思ったのは、「家」ということで現代的つまりモダンで科学的な物語を想像していたのですが、大外れでした。実態は懐かしい家や時代の怨念や確執がうごめくおどろおどろしい世界であり、わたしの世代にとっては、中学生のときに角川映画や角川文庫で大流行りした溝口正史ワールドでした。
実は少年時代にSFやミステリー大好き少年であったわたしにはこれらの世界に対しては十分に免疫ができており、そう恐れることなくワクワクドキドキで楽しめました。とくにラストシーンの旧家が激しく燃えるのを車窓から眼下にみる場面、どこかデジャブ感があるな~と思ったら、村上春樹さんの小説「羊をめぐる冒険」の主人公が最後に山荘が爆発しそこから煙が上がるのを列車の車窓から見送るという場面でした。もちろん本作は映画化されておらず、わたしのこころのなかでのイメージなのですが、見事にシンクロしました。
それにしても本作を観終えてやはり思うのは、社会の理不尽、家を取り巻く因習の強引、それらにかかわる個人の想いがひねくれるとこのような事件が起こらないとは限らないわけで、伝統や歴史を重んじながら個人が悲しまない世の中に少しずつ近づいていければ・・・なーんていうミステリー映画を観た後には似つかわしくない感想を持ちながら帰路に着きました。
2024年
5月
01日
水
先日、賀茂医療センター勤務時に公私ともにたいへんお世話になった恩師・岩崎先生と定例の会食をした際に、本作を先生が福山市の映画館まで出向き、素晴らしさのあまり二度も観られたという事実に刺激され、急遽まだ上映していた広島市内至宝の映画館「サロンシネマ」にて鑑賞してきました。
ヴィム・ヴェンダース監督、役所広司主演という興味深い組み合わせです。ヴィム・ヴェンダース監督といえば、まだわたしが20代の頃ベルリンの壁の崩壊直前であった1980年代に「ベルリン・天使の詩」という詩情あふれる大傑作(刑事コロンボでおなじみのピーター・フォークの主演でした)により大きな影響を受けた監督です。
その後も「ベルリン」の続編である「時の翼に乗って」、U2による主題歌が印象に残る「アンティル・ジ・エンド・オブ・ザ・ワールド」、カリブ海に浮かぶキューバ音楽紹介の先駆けとなった「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」・・、どの作品も音楽と映像の素敵な融合を果たし、スタイリッシュでありながら詩情あふれる作品にわたし自身もその都度強い衝撃と影響を受けてきました。しかし最近はなかなか新作を観ることがなく、寂しい限りでした。
この度、監督の大好きな日本を舞台に「TOKYO TOILET」( 有名建築家による東京に現存するデザイントイレです )をテーマに新作を撮り、主演の役所さんがカンヌ国際映画祭( 映画に対する愛とともに作品に対して最も偏向少なくまっとうな評価をする映画祭ですよね )において主演男優賞をとられたという情報を得ていたものの地元東広島の映画館においての上映はなく、日々の忙しさにかまけてほぼ本作の存在を失念していたところに、岩崎先生からの貴重なお話を聞かせていただき、それに触発されて急遽の修行となったのにもなんだか不思議な縁を感じました。
監督らしく、小津安二郎監督ばりの静かで低い視点から映された東京の風景( スカイツリーという最先端建築の近くに佇む隅田川を中心とした下町風景のコントラストが美しいです )と、齢60を軽く超え70に近づいているであろう初老の男性「平山」( 小津監督作品での笠智衆さんの役名と同一名というのが渋いです )のトイレ掃除を中心とした淡々としたルーティンワークに、60年代から70年代のロックやR&Bミュージックが重なりますが、この視点からの映像とともに画面から流れ出てくる音楽の融合がさすがでいろいろなことを想起させてもらいました。
まず冒頭一曲めのアニマルズ「朝日の当たる家」から心揺さぶる楽曲が平山の日常の風景に重なります。 これが文句なくかっこよくて観ている側のこころは否応なしに高鳴ります。 そしてアニマルズに続いて、オーティス・レディングの「ドックオブザベイ」、さらにパティ・スミス、ルー・リード、キンクス、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、金延幸子さんらの名曲たち( キンクスとヴェルヴェッツについては今でもよく車の運転中などに聴いています )が日が変わるたびに平山の気分の変化を表すように遷り変りますが、これらの楽曲すべて、おそらく60年および70年代を生きた団塊世代である平山が若きころに魂を揺さぶられたものばかりであることは容易に想像でき、それらをいまも颯爽と流しながら自分のすべき仕事に向かうその背中には潔さを感じるとともに若き頃に陶酔したこころの引っ掛かり( 岩崎先生も参加されなんと広大の総長までしていたという全共闘運動をはじめとした学生運動盛んな時代でもあります )があり、その後こだわりの塊となっていき、それが今この瞬間まで続いているんだということをうかがわせる構成でした。
そうしたソウル&ロックミュージックを毎朝軽自動車のなかで、しかもカセットテープ(アナログ)で必ずかける。その日の天候や気分に合わせてカセットは変わるものの、いずれも古い当時の生活や魂を惹起させるものばかり・・・。そして淡々とするべき仕事をする。
毎日儀式のように早朝誰もまだ起きていない時間帯から動き出し、同じような動作と同じようなリズムで淡々と仕事をこなしていく平山。 休憩時間はフィルムのカメラ(アナログカメラ)で好きな公園で昼のサンドウィッチを食べながら季節とともに移ろいゆく木漏れ日の写真を日々撮影する。風呂は地元の銭湯の一番風呂。夕食はいつもの定食屋でいつものメニュー。家に帰れば、テレビもなく好きな本を読み眠りにつきまた仕事の朝を迎える。
なぜ平山がこんな美しくも簡素な生活に至ったかの説明はまったくされませんが、彼の好む音楽が雄弁に過去に存在していたであろう想い、葛藤、こだわりを語るような映画でした。
わたしが勝手に想像したのは例えばこんな感じです。 ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのボーカルでもあるルー・リード。グループ時代の曲もソロ時代のものも両方流れていましたが、ルー・リード自身、父親との強く衝撃的な確執・葛藤(父親から電気ショック療法を強制されたという体験まであり)があり、それらの葛藤から音楽の道にのめりこんでいった事実はよく知られており、こうしたルー・リードの曲をあえてフューチャーしているということは、もしや平山もルー・リードのように若き頃父親との強い確執で家を飛び出し、なんらかの表現活動に関わっていたのでは?とか・・・ パティ・スミスは、社会的不条理を真っ向にらみつつ闘争を個性的に続けていくという魂の燃焼が象徴的なアーティストでしたが、平山もそうした闘争スピリットを取り込んでいきながらそれらを昇華させていくさまざまな長い過程を経て、つらく困難な時代を生き抜き社会奉仕的作業を含む、悟りのような簡素な生活に辿り着いた・・・というのは考えすぎであることはわかっているものの、そうした妄想的物語さえ本作に重ねている自分がいまいました
いずれにせよ当時の音楽に込められたスピリットを胸に秘め淡々と生活していく姿に、観る者は自分の生活を重ね合わせざるを得なくなります。 わたしにしてもそうで、平山とは異なる職業に就く身ながら、その仕事を一途に極めていくことの重要性をあらためて感じさせられました。
ここまでどちらかというと劇中音楽のことを中心に気ままに徒然に語りましたが、実はわたしのこころに一番突き刺さったテーマは次のことでした。
『 われわれは今日この日、この瞬間つまり「いま」しか生きられないのだから、そのかけがえのない今日「いま」を懸命に大事に慈しみながら営んでいくんだよ 』というメッセージ。 平山の日々の静かなルーティンワークから上記メッセージがこぼれ落ちていました。 ヴィム監督、主演の役所さん、またそれぞれの登場人物たちから、理屈抜きにこれらを感じざるを得ず、メッセージを、本作の鑑賞体験を通して確かに受け取ったような気がしました。
鑑賞後には『 これから自分も自分の居続ける場所で、人々や社会に僅かなりとも他者貢献( 本作の平山ならトイレ掃除 )を実行しながらしっかり貴重な「いま」を営んでいこう 』という想いとともに作品から勇気と元気をいただいたような気がし、映画の最も良質な部分を感じたりしました。
このように本作はある種の因縁とともに、ときに忘れかけるかけがえのないものを思い出させてくれる作品でした。 さすが映像と音楽の詩人、ヴィム・ヴェンダース監督の作品でした。 機会があればもう一度観たい作品となりました。みなさんもお近くの映画館に本作が来ましたらぜひぜひ鑑賞してくださいませ。
2024年
4月
17日
水
本作をGWが近づいてきたある晴れた春の休日のお昼にT-Joy東広島にて鑑賞してきました。2023年度のアカデミー賞作品賞受賞作であり、3時間の長尺だけに期待するとともにこころとからだの準備をしっかりして鑑賞に臨みました。
わたし自身も一応理科系出身の人間だけに、学生時代にちらりと学んだ、アインシュタインの相対性理論( 光速を無限と過程した結果、中学生にも分かる数式の変型・展開の末に導かれる、ひとつの結論E=MC²は数学好き少年だったわたしの心にも印象的でした )に端を発した量子物理学に興味を持ったこともあります。 その行き着く果てとしての、原子力爆弾。そしてその爆弾の製造プロジェクト「マンハッタン計画」の指揮をとったオッペンハイマーの物語です。アインシュタインはもちろん量子物理学の父・ニールスボーアも登場しており、科学史が好きな人にはたまらない設定となっていました。
そして3時間があっという間に過ぎました。オッペンハイマーの原爆製造前の自信・恍惚・自負心とともに投下後の失望・葛藤・後悔が美しくも冷徹に描かれていました。
本作で初めて知った事実はたくさんあるのですが、とくに興味深かったのは、当時彼の弟はアメリカにおいて共産党員であり、妻も愛人も共産主義者であり、彼自身もその思想に共鳴していたことであり、そのため戦後アメリカにおいて激しく吹き荒れたレッド・パージ( 赤狩り )により弾劾され原爆製造の立役者にも関わらず、社会的に抹殺されていく流れです。
正直本作を観るまでは、オッペンハイマーのことをどんな人かを知らないまでもアメリカ絶対主義の、頭脳明晰で現実的かつ楽天的人物をイメージし原爆の被害者の悲惨さをよそに幸せな人生を終生送っていたと思っていました。
考えてみれば、わたしでさえもそうだったですが、20代前後の若き理想に満ち満ちていたころには、「すべての人間が科学的合理的経済理論の下、平等に平和に暮らす」というイメージを共産主義に持っており、それはオッペンハイマーでさえそうだったのだという感慨とともに、その後の共産主義の惰行を知っているだけに甘酸っぱく切ない気持ちも湧いてきました。
そんな頭脳明晰で理想主義的なオッペンハイマーが原爆製造後、原爆のもたらした災厄やその後の水爆への発展といった影響やどろどろした人間的確執や狡猾な罠に囚われ、社会的に償却されていく段階になると、歴史的使命(彼の場合は「原爆を実際に製造した」という事実)を終えた人間の末路というのはいつもこうなるよな~なんて歴史好きとしての感慨も持ちながら、終幕を迎えました。 ひとりの人間の恍惚と苦悩を見事に描いた文学的作品でした。
我々は人類唯一の被爆国の国民であり、本作はその惨禍の原因となった科学者の物語であり、「本作は必見!」と言いたいところですが、3時間という長尺と物語のレンジは意外と狭くあくまでアメリカから観た視点(まあ当然ですが)であるということもあり、科学や文学、歴史好きの方に強くおすすめの作品と感じました。
2024年
4月
08日
月
いつも大変お世話になっております。
おかげさまで、四季の心クリニックも本日で満11年。明日からは12年目に入ります。いままで影に日向にお世話になった方、これまで診察を通して出会った患者さんらに感謝しかありません。ありがとうございます。
開院時のドタバタから早11年たったのだと思うと本当に光陰矢の如しであります。この間わたし自身の変化としては、休日や休憩時間などお日様の機嫌の良い日にはなるべく屋外に出て短時間でもウォーキングを励行することを覚えました。 建物のなかにじっとせず、常に外にでて歩いたりするのは心身の活性化をもたらすようで、このためかクリニックスタッフたちからは「開院当初より若くなった」などといったありがたいお世辞?をもらっています。 ちなみに今回の写真はクリニックから東側に横たわる御薗宇の山のなか(クリニックから歩いてたったの10分でここに着きます)を歩いた際にとった山道の写真です。
クリニックとしては、HPに挙げている理念「地域のみなさんにこころの医療を通して貢献していく」はいつもこころに刻んでおり、今後も不変ですが、具体的な内容は少しずつ変わりつつあるように思います。開院当初は医療ではどうしようもならないストレス反応にも首をつっこんでいたのですが、現在はあくまで医療にて対処できる病を見極めて治療をしているように思われます。もちろん11年前よりも対応できる治療レンジは広がったとは自負するものの、まだまだ十分でないことも確かです。さらなる向上のためには、わたしを含めたクリニック全体の成長および治療スキルの向上も不可欠であり、今後も日々こころの世界の研鑽を図っていく覚悟です。
12年目とは言いつつもまだまだつたないクリニックですが、今後とも地域のみなさんと歩んでいく所存なので今後ともよろしくお願いいたします。
P.S.いつも開院記念日にたくさんの人から心づけを頂いております。この場を借りてお礼を言わせてください。 今後も誠心誠意の医療を続けていくという形でお返しさせてください。でもコロナも収束しつつあるので、直接お会いしたいですね。
2024年
3月
15日
金
本作をT-Joy東広島にて鑑賞してきました。 コミックは大ヒット作だけに最近どうも漫画に疎いわたしでさえもなんとか読了している作品です。
スポーツ漫画の映画化としては、少し前に「スラムダンク」があり、それは原作にはなかったエピソードを挿入して新たな世界を作っていましたが、果たして「ハイキュー」はどう出てくるのかを楽しみに映画館にはせ参じましたが、本作は原作にほぼ忠実な作品となっており、漫画にて試合の結果を最後まで知っている身にとってはやや醍醐味に欠けるように感じられ、「うーん、そう来たか~?」という作品でした。
そこで、わが子が「凄い良かったー」との感想を残していたので、「どこがそんなに良かった?」と尋ねたところ、「ハイキューファンにはそれぞれの押しキャラがあって、その彼らが実際に動画として動いているところがたまらない」との答えを得ました。
「なるほどそういうことか~」という感慨は湧いたものの、どうも落ちない印象も残るので、熟考しつつ「おそらくこれが世代間ギャップというやつなんだな」と妙に納得しつつ、また原作を一から読み返してみるわたしでした。
いずれにせよ、本作によってここ最近のバレーボールブームの到来、それにつれてのバレーボール日本代表の強さ(とくに男子)がもたらされているような印象もあり、スポーツ観戦好きのわたしにとっては大いに喜ばしく、日本代表には来るパリ五輪にての大活躍を期待したいと思います。
2024年
2月
22日
木
先日仕事で広島市内に行く機会があり、そのついでに久々に広島の至宝サロンシネマに行くことができ、なんとか観たかった本作を観ることができました。
世界に絶望し自殺した女性の身体に、彼女自身が身ごもっていた胎児の脳を移植して蘇らせたらどうなったか・・??という英国映画です。
フランケンシュタインの美人版かと思いつつ物語はとても哲学的な方向に向かっていきます。成人の身体に無垢な頭脳をもつベラが世の中のことをもっと知りたくなりさまざまな世界を感じ堪能するために、それまで女性を食い物にしてきた下心たっぷりのエロ弁護士と旅に出るのです。
こんな破天荒な展開ながら、映画ならではの35mmレンズを多用した中心視点に焦点が定まる独特な世界観(これも幼児頃に誰もが持つ世界の観方ということでしょうか?)、そして何よりも世間の常識やものの見方に洗脳されていない無垢な魂から見える世界の艶やかな色彩が素晴らしいです。 こうした映画ならではの映像美がまた素晴らしく、どんな視点からでも切り取れる、まさに映画の極致を表現した作品でした。
物語の展開は軽快かつ本能的かつ哲学的であります。かつてフランスの女流哲学者ボーボワールによる「女性は世界によって後天的に造られる」というような内容の発言をうっすらと記憶していますが、その発言をこの映画を通してまるで証明しているかのようでした。
エロティックな煩悩の奴隷たちがドタバタ劇を繰り返す展開のなかで、慎ましやかで礼節のある女性やそうした女性の考え方や価値観の枠は、もしや男性による勝手な理想・幻想の押し付けなのではないか?・・こんな深いテーマが横たわっていました。
男性も女性も含めて人類というものは常識や先入観をひっぺがえせば、どれほど哀れな存在なのかというテーマも重いのですが、その一方で、既存の常識は入っておらず無垢な原石のごとき魂を持つベラが実体験を繰り返しながら本や知識を得てどんどん人間的に成長していき、なんと自分を蘇らせた医者という職業を目指すようになり、元々の自殺の原因となったDV的な元夫に対する痛快な報復を果たすラストシーンは、映画を超越したやや漫画的ラストではありましたが、捧腹絶倒、透明深淵な作品であることは論を待たず是非とも映画館で観て頂きたい作品でした。
まあそれでもあのエマストーン(大胆で無邪気で恥じらいもない調子で知識や性欲にも貪欲で自らの運命を切り拓いていくベラは、あのラ・ラ・ランドにおける運命に翻弄される可憐なヒロイン女性と同一人物とは信じがたい変身ぶりでアカデミー賞の主演女優賞間違いなしです)がまったく恥じらいもなく男女も問わず画面いっぱいに欲望のままにさまざまな行為をするのですから、この点では賛否両論が沸き起こるかもしれません。 もちろん過激な性描写のおかげでR18でもあります。 しかし、わが街の映画館T-Joy東広島にても上映されれば、広島大学、近畿大学、広島国際大学の学生さんらをはじめ若い世代が多い東広島においては、若者たちが狂喜乱舞、沈思黙考すること間違いなしの素敵な作品でした。わたしもT-Joy東広島にてもし上映されれば、再度映画館に駆け付けようと思います。
P.S.本作は今年度のアカデミー賞作品賞にノミネートされているそうですが、エマストーンの主演女優賞は確実としても作品賞はさすがに難しいのかもしれません。しかし万一本作が作品賞をとったらこの常識にとらわれた哀れなる世界がどれほど衝撃を受けるだろう?・・・と想像すると少しわくわくします。(やはりアカデミーの作品賞はとれず、順当に大作「オッペンハイマー」が受賞しましたね。)
2024年
1月
24日
水
やっと遅ればせながら、本作を体験してきました。友人から「今までのゴジラシリーズの最高傑作では?」と伝えられていましたので、絶対に観に行こうと思っていたものの、お正月明け何かとこなすべき課題が満載でついつい時間がたっていました。T-Joy東広島にてまだ上映してくれていたことに大感謝です。
さてさて観終わってびっくり。文句なしの作品で2時間があっという間でした。 今までのゴジラはあくまでも怪獣アクションであり、「シン・ゴジラ」にても怪獣アクションの王道は外さずに表現されていましたが、本作はもうゴジラを媒介にした戦後日本の残された人々の葛藤と日々の営みが主に描かれており、びっくりしました。
しかしよく考えたら山崎貴監督は「三丁目の夕日」を製作された方でもあり、この展開は納得できるものがあります。わたしにしても太平洋戦争(大東亜戦争とも呼ばれます)を中心とした日本の有り様については非常に関心が高く、この時代のさまざまな出来事とアメリカの強い関与が現代の日本社会に繋がっていることは疑いようもなく、そこら辺のややくすぐったい部分を素晴らしく本作は表現できており、凄いな~山崎監督・・・という気分で映画館を後にしました。
ラストシーンについてはいろいろ賛否が分かれるとは思うもののそこは素敵な映画の必然であり、本作は文句なしの出来であり、この迫力は多くの人が映画館で味わってほしいという作品でした。
P.S.なんと本作はアメリカでも大ヒットになっているとのことですが、アメリカ人に敗戦直後の日本人の心境が理解できるのかな~と思いつつ、たとえ理解などできなくても当時の日本人の魂を少しはアメリカ人が理屈抜きで感じてくれるだけでも少しは将来に光があるのでは?なーんて思いながらの帰路となりました。
2024年
1月
08日
月
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
皆さんは良いお正月を迎えることができましたか?わたしは昨年はいろいろな事情が重なり帰省がならなかったので、2年ぶりに故郷・愛知に帰省してきました。
高速道路(山陽道は従来どおりですが、新名神高速道路がかなり長い距離完成しておりかつてに比べてすいぶんと楽な行程となりました)の快適なドライブの果て、大晦日の夕方に実家に到着し、家族で晩御飯と紅白歌合戦などを観て、翌元日からは近隣のアウトレットやショッピングモール、日帰り温浴施設のはしごなどをして過ごします。 広島ではなかなかお目にかかれない東海地方独特の大規模店舗(なんと府中ソレイユの1.5倍はあろうかというイオンモールもあったり、パチンコ屋もカラオケや温泉やボーリング場、映画館なども併設して豪華アミューズメント施設もあったりするのです)がゴロゴロあるので、日頃ほとんど買い物をしないわたしでもそれらの店舗や施設周りを楽しみ、ときに冬服や面白グッズなどを買ったりするのです。
そして正月の夜は、小中学校の同級生らとの「正月会」と称する飲み会(個人的にはこの会への参加が一番の帰省の目的です)に参加し、そのままお酒を飲まない同級生の車に乗り込み深夜ドライブして恒例の岐阜県海津市にある御千保稲荷神社に元日参拝をしました。
しかしその一方で、元日には北陸で大地震が起こったり、翌2日には羽田空港で大事故が起こったりで、心配な事件も飛び込んできたりしました。 来年2025年7月には大災害が起こるという巷の予言もありますし、なんだかな~という感覚もあります。日々そうした不安を掻き立てる事件や災害などは不意に今年も起きるでしょうが、それでもわたしたちにはわたしたちの日々できる仕事や営みをするしかなく、その覚悟を持って今年も全力で目の前の仕事に当たる決意を強くしました。そうした想いも抱きつつなんだかんだ言って正月3日には無事広島に戻ってきました。
いつもの年のごとく良くも悪くもパワフルな故郷にいつも圧倒され刺激やエネルギーを得ての帰省でした。広島に戻ってからは頭を切り替えて、自分にもやらなければならない課題(学生時代には大人になればこうした締切のある課題はなくなるか減少するのでは?と思っていましたが、そうはいきませんでした)が多く、今年もしっかりそれらに全力で取り組み乗り越えていく覚悟です。
また最近忙しさもあり、映画修行の頻度が落ちており、これは今年の課題ですが、そんななかでも追いかけてくる課題の合間を縫って日々の読書は結構しており、今年は読書歴に関連した駄文もこのブログで披瀝しようかとも考えていますので、こうご期待です。
もちろん診療の方も、明るく誠心誠意頑張っていく所存なので今年もよろしくお願いいたします。
2023年
12月
08日
金
令和5年も年の瀬となり、わたしもクリニックの休診日に診察にいっている「ゼノ」少年牧場のなかでも特に懇意にしているスタッフたちとの忘年会に参加しました。 コロナ渦もあったり、縄手前理事長が突然に亡くなられたりしたこともあり、ずいぶんと久しぶり(なんと8年ぶり)の各々の逢瀬となりました。
いつも「ゼノ」診療所というわたしを含めてスタッフ数人の小さな部署で発達障害を持つ子どもたち(成長された大人の方もいます)の診療に、四季の心クリニック開業前から携わっており、かなり多くの子らを診療するので、着いたらすぐに診療開始で夜までその連続なので、みんなとゆっくり語り合う時間はほぼない勤務時間なのです。そんな診療の日々が振り返ればはや今年の10月で満20年になりました。わたしだけでなく、みんながその分歳を取ったわけで、不思議な心境です。赴任当時まだ30代の若造の医師がいまや50代になったわけですが、自身外面的にはずいぶんと太ったものの、内面的には少しは成長もあったりするものの、魂の根本部分はあまり変わっていないことに我ながら驚いたりしています。
福山というわが家からは片道60キロ以上ある場所への隔週の診療ですので、最初は急場をしのぐピンチヒッターみたいなもので勤務は長くて5年ほどだろうと思っていたのもつかの間、気づけば20年。 山陽道・西条ー福山西インターの往復も500回はゆうに超えてしまいました。 「ゼノ」少年牧場は県内有数の発達障害関連の大きな組織であり、その診療を支える「ゼノ」診療所の医師の責務は当然ながら大きく、当初から自分で本当にいいのだろうか?という一抹の不安を抱きながらの診療が20年も続いているのだから不思議なものです。
しかしおかげさまでこの20年の間に福山・尾道を中心とした、驚くほどたくさんの方々の知り合うことができました。もちろん去る人もいれば、出会う人も盛沢山いました。これらの日々やさまざまな出会いと別れは本当に人生の財産であり、わたしの魂はここ東広島と福山の2か所で元気に活動を続けてこれたわけです。通常の倍の経験をはぐくんでくれたような気さえしています。実際、福山診療に携わっていなかったら気づかなかったであろうこころやからだの事象も多々あります。福山の街にもずいぶんと詳しくなりました。とくにラーメン屋については福山在住の方より詳しいのでは?と自負しております。そんななのでクリニック開業の際も福山も候補地として考えていたほどです。
いろいろ思いつくままに福山への想いを綴ってみましたが、いずれにせよ東広島でも福山でもつくづく運のよい歩みだったと今更ながらに思っています。 こうした身に余る二足の草鞋状態ですが、今後も自分の魂とこころとからだが続く限りなんとか微力ながら継続していきたいと思っています。
そんな「ゼノ」の普段はなかなかゆっくりと話せないスタッフ(診療所、事務所、やまびこ学園、作業所、グループホーム等々さまざまな職場から集まりました・・)らと気兼ねなくお酒を酌み交わす平和な年末に感謝です。
また来年も日々の仕事で接することはなかなかなくとも「ゼノ」の理念を胸に各部署でしっかりと働き、一年に一度ぐらいは無礼講で羽目を外して語らい合いましょう。
2023年
11月
23日
木
忙しさにかまけていたため、本作を終映間近の一日一回上映となっていた11月初頭になんとか地元のT-Joy東広島にて鑑賞してきました。 ややマニアックな本作を広島市内に行かなくても観れてとても感謝です。
言わずもがなの待望の岩井俊二監督の新作です。これまでのブログでもずいぶんと書いてきましたが、わたしは初期の「undo」の頃からの岩井ファン(チルドレン?)であり、30年以上の長き年月にわたって、映画におけるマジック岩井ワールドに翻弄されながら人生の途上で少なからず影響を受けながら成長してきた感覚をもっております。おそらくそんな感覚を持つファンは日本中そこかしこにおり、そういう人たちとは直接的コンタクトはなくとも想いというフィルターを通じて日本中でワイヤレスに繋がっていると常日頃感じております。
ちなみに最近の岩井監督はアニメに挑戦したり、過去の作品へのアンサー映画(「ラブレター」に対する「ラストレター」)を作ったりと悠々自適に作品を発表しておられますが、本作は久々の本格新作であり、かつ故郷を襲った東日本大震災に対する監督の想い(監督はあの震災復興のテーマソングと言える唄「花は咲く」と作詞者でもあります)が詰まった作品という前情報もあり、遅まきながら勇躍映画館に駆け付けました。
映画を観終わって文句なく期待通りの作品でした。さまざまな要素がありすぎてまだ自分のなかでは消化不良の部分が多いのですが、かつての名作「リリーシュシュのすべて」(岩井監督の最高傑作ではないでしょうか)の2023年度版のようなにおいを感じました。もちろん主人公は14歳ではなくもう大人なのですが、主人公や登場人物らの魂は10代のような無垢さであり、まだ人格が固まっていないさまざまな魂たちが織りなす人間&音楽ドラマです。そして彼らの魂に共有され強く刻み込まれている東日本大震災という傷痕。そんな傷を隠しながら東京でナイーブに生きる人もいれば、しぶとく狡猾に生きる人もいたりして、そんな魂たちの再会がスクリーンいっぱいに素敵な音楽をバックに美しく表現されていました。
それら明暗を彩る心象風景が画面いっぱいに広がりながら、音楽(岩井監督作品はいつもですが、このうたと音楽がまた良いんです。今回も小林武史さんによるものです)というプリズム(光の交錯)を通して世界に自分の想いを伝えていこうとする意図。才能に群がる訳知り顔の大人たち。原点回帰の路上ライブ。自由な表現をするにはあまりに偏狭で厳格な法の縛り。形を変えつつある世界のなかでの音楽を通した人の営み。日常に潜みながら渦巻いている欲望。高校時代からの友との絆。そんな人の営みを軽々と流し去る自然の暴力的ともいえる無慈悲・・・。
思いつくままに本作のパラメーターを綴ってみましたが、もし興味を持たれたら、ここから先はぜひ実体験してみてください。素晴らしい映画体験になること必定と思われます。
P.S.本作を観て、わたしもまた映画館で「PiCNiC」「スワロウテイル」「リリーシュシュ」「四月物語」といった岩井監督による名作群をたばで体験したいと思いました。かつて開催されたと記憶しておりますが、再びサロンシネマのフィルムマラソンにて岩井監督ナイトを開催してくれましたら、馳せ参じようと思っています。よろしくお願いいたします。
2023年
11月
05日
日
秋も押し迫ってきた久々の休日に本作を府中町のヴァルド11にて修行してきました。残念ながら我が東広島のT-Joy東広島にては上映なく、久々の遠征です。
一般的な視点としてはマニアックな本作ではありますが、あえて観に行ったのは、言うまでもなく本作が、少年時代から青年に至るまでテレビ(毎週金曜夜8時から放送されていたアレです)の画面を通して毎週なんともなしに見続けてシャワーのようにその闘いぶりやその言動の影響を浴び続けてきた、あの偉大なアントニオ猪木を大画面で観ることができる最後になるかもしれないとの想いからでした。
わたしのような昭和世代からすると、アントニオ猪木という存在は好き嫌いとかは超越した存在であり、とりあえず金曜夜8時から8時53分までの永遠の憧れでした。「なんだこの野郎ー」とか「負けると思って闘うバカがいるかーっ」「俺は決して逃げずにお前らの挑戦を受けてたつからいつでもかかってこいー」といった名言は昭和の少年のこころに突き刺さり、いまもこころの奥底に渦巻いているのです。
さて観終わっての感想ですが、残念ながらやや不完全燃焼でした。それは猪木の映像でけでなく、3話ほど「猪木と時代をともにした当時の少年や高校生、社会人のフィクション(創作された物語)」が結構な尺をとって挿入されていた点です。 もちろん当時そうした物語は日本中のそこかしこであったでしょうが、本作であえて貴重な猪木の戦闘や言動の映像を削ってまで挿入することには議論の余地があるように感じました。
できれば、モハメドアリ戦はもちろん宿敵タイガージェットシン、ハルクホーガン、スタンハンセン、ブルーザブローディといった素晴らしいライバルたちとの命を張った対決の映像が大画面でもう一度観れると思っていただけにやや残念でした。もちろんこれはわたしの個人的思いでありいろいろな考えがあるとは思います。
ちなみに本作には福山雅治さんがナレーションを付けており、制作も芸能事務所「アミューズ」になっていますので、もし「アミューズ」さんが猪木のさまざまな格闘画像の権利を持っているのであれば、ぜひ「アントニオ猪木・闘魂の轍」とかのタイトルで、猪木の実映像や舞台裏の背景や後日談を中心としたバイオグラフ的な格闘の歴史作品を映画(ビートルズで言えばずばり「コンプリート・ビートルズ」のような作品)として制作してもらいたいと思うのはわたしだけでしょうか? 何も畏れず闘う魂・闘魂。これを忘れかけている我々日本人には素晴らしい喝になることは必定であり、結構ヒットすると思うのですが、ダメでしょうか・・・。是非とも検討の程よろしくお願いいたします。
2023年
10月
24日
火
本作を何かと忙しかった秋の真っ只中、久々T-Joy東広島にて鑑賞してきました。 本作は和訳すると「創造者」です。なんとも壮大なタイトルであり、さまざまな宗教やこころの世界も関与する概念でもあり、わたしにとっても研究テーマというと大袈裟ですが、はっきり言って日々意識している概念なので、これが映画でどのように表現されているか楽しみにしての劇場入りとなりました。
本作は、AIが引き起こしたと思われた核爆発(実は人間の誤動作だった?!)による都市(ロスアンゼルス?)消滅を契機に、AIを敵視かつ否定し根絶に走る欧米。 それに対してAIをこの先も人類の発展のために利用しながら共生していこうとするアジア連合(これには我が国はもちろん中国やシンガポール、ベトナムなどが含まれます)。この両者の抗争を描いています。AI側が発明した究極の殺人兵器「クリエーター」を破壊するべく、アジアの基地に踏み込んでいくひとりのアメリカ人を主人公にして物語が展開します。
さてどんな展開と結末が待っているのか?それは観てのお楽しみとしていきましょう。 ぜひこの続きは本作を観てみてくださいね。
本作で興味深かったのは、密かにAIによって創られ完成していた最強兵器「クリエーター」である可愛い少年アルフィーですが、後で確認したらなんと女の子だったのです。おそらくアジア人もしくは日本人からみたらアルフィーはダライラマの少年時代のような少年に見えており、わたしは観劇中ずーっとアルフィーを少年とみなしておりました。これは西洋と東洋の少年少女の外観における価値観の違いのようにも思われ、いつか本作を観た方と語ってみたいものです。
いずれにせよ「創造者」とのタイトルを冠した本作を映画という人類の共通コンテンツを通して近未来の問題を露呈させた作品であり、昨今のAIの急速な進歩を鑑みるに観ておくべき作品と思われました。みなさんもぜひ観覧ください。
P.S.「ザ・クリエーター」・・・なかなか画期的なテーマの本作ですが、こうした宇宙における創造者をテーマとするストーリーは我が日本では、手塚治虫先生(とくに火の鳥の未来編や復活編、ロストワールド、来るべき世界などなど)や石森章太郎先生(「リュウの冒険」「ギルガメッシュ」「サイボーグ009」など)らによって、すでに漫画の世界で表現されています。わたしも子供時分にその洗礼を受けておりもうすっかり免疫もできているので、かなりのデジャブ感を感じながらゆっくりその経過と結末を楽しませてもらいました。 本作のような作品を観ていつも思うのは、現代の映画の力でもし手塚先生や石森先生らの作品を実写化したらどんなに素晴らしい映画体験となるだろうということです。いつかそれが実現する日を夢見ながら、わたしもこころの創造者の世界の探求に勤しんでいきたいと思います。
2023年
10月
10日
火
10月の連休を使って高校生の子どもとふたりで東京旅に行ってきました。 コロナ騒ぎもあり、延び延びになっていたお祝いの旅です。
わたしにとって東京は、仕事や学会で年数回は単身訪れる街で、積年の積み重ねを経て上京回数は数十回には至っており、まずまず土地勘や馴染みができている街になっています。 その一方で故郷である愛知には1-2年に一回の帰郷。 残念ながらすっかり「故郷は遠くにありて思うもの・・」という感じになってしまっており、寂しい限りです。
その東京ですが、最近はすっかりおやじになったせいか、訪れる街は東京駅周辺(丸の内、有楽町、新橋など)が多く、渋谷、原宿、新宿といった山手線の反対側に位置する都の西北・若者の街にはとんとご無沙汰しています。
しかし今回は10代との旅であり、一日目はお久しぶりの若者エリアへの再訪が目白押しでした。 映画「君の名は」の聖地である四谷駅や信濃町のあのラストシーンの神社の下の階段を皮切りに、原宿竹下通り、渋谷スカイ、渋谷スクランブル交差点(わたしの好きな尾崎豊の聖地でもあります)、ハチ公銅像などなど、そういえば自分も初めて18歳の時、東京の大学を記念受験(私大であり、我が家の経済的事情からすると、たとえ合格しても入学金も払うあてはなく最初から入学する気のない合格したという栄誉を得るためだけの受験ですが、卒業間近の2月中頃の時期でもあり、この上京体験こそが本当の修学旅行だよなぁと当時思ったものです)で訪れた際受験の前日に真っ先に向かった街は原宿や竹下通りだったな~なんて思いながら、ひたすら歩き回りました。雨の予報もあったのですが、一日めはなんとか天候ももち、渋谷スカイ(写真は渋谷スカイから見下ろした新宿ビル群、代々木オリンピック体育館、明治神宮方面です)でもゆっくりできました。
その後は以前よく友人と訪れた、銀座一丁目の「俺のイタリアン」でピザとパスタの夕食。その後宿泊先の品川プリンスホテルに投宿しました。ホテルに着いたら、ちょうどラグビーワールドカップ、日本対アルゼンチン戦が終わったところでした。この試合も観たかったのですが、世の中すべてを満足させることなどできないのは当然であり、仕方なしです。
そして二日目は雨でしたが、宿泊先の朝食ビュッフェ「HAPUNA」(ここはスタイリッシュな空間を構成しており、東京らしくなかなかのおすすめです)を堪能したのち、品川駅から山手線で東京駅に移動して、東京駅北口から駅前丸善書店内のコーナー「手塚治虫書店」に寄り、その後丸の内ビル群を抜けて、皇居前の帝国劇場、GHQの第一生命ビルの前を通り、皇居二重橋の前で記念写真、桜田門をくぐり、名探偵コナンで有名なお目当ての警視庁本部ビルを前に回れ右し、傘をさしさし東京駅に戻り、八重洲口を経てそのまま日本橋まで歩き、やっと地下鉄に乗り、浅草に移動。雷門をくぐり、雨のなか人でごった返す仲見世通りをなんとか通り抜け、おみくじも引き浅草寺本堂のなかへ。10数年前小中時代の親友とここを訪れ、浅草演芸ホールで寄席を観たことも思い出しました。
名残惜しい浅草を背に今度はお台場へ。一番のお目当てはヒカキンやフィッシャーズをはじめ有名YouTuberがよくロケを行うという「台場一丁目商店街」。そこも十分堪能した後、フジテレビ本館です。 お台場訪問も10回以上を数えているのにフジテレビ社屋には実は今まで入館したことがなく初めて来訪させてもらいました。最上階のショップを経て本館一階でイスに座り親子で休憩していたところ、朝のテレビ番組(「ノンストップ」という番組で質問テーマは世代間の言語格差でしたが、関東地区限定のローカル番組であり、どのように放送されたかは確認できませんでした)のインタビューを受けたこともとても記念になりました。
ゆりかもめ最前列席を堪能して最後はいよいよ帰路の飛行機の待つ羽田空港第2ターミナルに移動です。ここでもしっかりとお土産に期待されている東京お土産の定番「年輪やのバームクーヘン」を購入し、無事空路に着きました。
なんと二日間合計で都内50000歩以上を歩き通した旅となりました。
だらだらと旅の記録を書き綴りましたが、誰かが言っていました。 「人生で大事なことは名誉を得たりお金持ちになることではなく、思い出持ちになることだ・・・」と。 わたしもこれに強く共感かつ同意であり、今回の東京旅では少しだけ「思い出もち」となったような気がしました。
この文章を読むみなさんも秋の空の下、どんどん野外に出て素敵な思い出を作ってください。 わたしもまだ続く秋の気配を感じながら、令和5年の秋をあともう少し歩いてふらふらと漂いたいと思っています。
P.S. 次回の東京旅では、東京在住の親友らと語らう旅にしたいものです。
2023年
9月
01日
金
本作を夏の終わりの気配がやっと見えてきた休日のお昼にT-Joy東広島にて鑑賞してきました。 早いもので映画劇場版の3作目です。
原作漫画においては69巻に到達し、あのキャラ立ちの激しい「〇〇」もついに冥界入りとなり、物語全体としてはいよいよ中盤に入ったという展開ですが、映画版では王毅と信、政(後の始皇帝)の過去の悲しきエピソードから現在の中国統一を目指すという気持ちに至るまでの経緯が素晴らしい映像とともに、大画面いっぱいに展開されます。 信の命の恩人役の杏さんも素敵でした。わたしなどエンドロールが流れるまで杏さんが出演しているということに気づかないほど杏さんは自分を殺してその役になりきっていました。
キングダムについては、前回2作目の欄で熱く語ったので、今回はあっさりと行こうとは思いますが、相変わらず実写版素晴らしいです。 やはり絵ではどうしても物語のスケール感やリアル感が表現しにくい部分があるのですが、映画版はそれをしっかり補完でき、それによりまた原作を読むと想像の翼がパタパタとはためくといった具合で、次回も次々回作もいまから楽しみな出来でした。
小柄すぎると感じていた大澤・王毅についても、もはやこれでいいのではないか・・というド迫力であり、他の配役もますますしっかりはまってきました。 3作目の新配役は今回も新たに、佐藤浩市、山本耕史、玉木宏、杏・・・と豪華絢爛であり、まるで日本の才能豊かな俳優陣をすべて配役していくのかというラインナップであり、これから登場してくる人物にしても、誰が〇〇、誰が△△を演じるのか想像するのも楽しく、その点でも興味がつきません。 なんやかんやで楽しく壮大でわくわくする作品になってきました。今後の展開に目が離せないのは言うまでもなく、本作が続く限りしっかりわたしも付いていくので、原作の原先生、佐藤伸介監督をはじめとした制作陣の方におかれましては、健康に留意して素敵な作品を作り続けてほしいものです。
P.S.煌めくような群雄割拠の登場人物たちのなかで選ぶとすれば個人的には蒙恬が好きですが、実写版での活躍は次回以降になりそうですが、蒙恬を誰が演じるのかも含めて彼の活躍も楽しみです。
2023年
8月
01日
火
本作を夏休みで子どもたちの元気な声が朝からさわやかに響く一方で、日中は太陽の光が痛いほど肌を突き刺す真夏の昼下がりにT-Joy東広島にて鑑賞してきました。
わたしだけでなく全国民待望のスタジオジブリの長編作であり、加えて宮崎駿監督作品であり、避けて通ることのできない本作です。
本作のタイトルは昭和12年発売のベストセラー「君たちはどう生きるか」とまったく同じであり、ほんの5年ほど前に漫画化や再構成化されて巷でヒットしていただけに、その昭和作品のコペルくんを主人公とする物語のアニメ化なのだろうか?・・それともまったく別のオリジナル作品なのだろうか?・・・という疑問が自然に生じるわけなのですが、本作の前情報はアオサギがめいっぱい描かれている不思議なポスター以外宣伝文句やコピーがまったくと言っていいほど行われず、宮崎監督から「なんの先入観を持たずにこの作品を観て感じてほしい」とのメッセージを逆にひしひしと感じながらの修行となりました。
そして暗闇の映画館のなかでは素晴らしい映画体験の時間が待っていました。まず冒頭の疑問は完全に後者でした。 宮崎監督が自分のいま頭のなかにあるイメージを一筆書きのように自由闊達に描いたオリジナル・ファンタジーになっていました。
まず一番素晴らしいのは、やはりアニメ化された絵そのものの力であり、今回はその絵がまた一段と魅力的で、今まで宮崎監督が関わったジブリ作品のオマージュのような場面が、いちいち挙げるには多すぎるほど全編にわたって、これでもかというぐらい出てきます。 例えば真人が疎開する壮麗な屋敷も「千と千尋」で観たようなお屋敷であり、そんな屋敷に住んだことのないはずのわたしがその屋敷の絵そのものに懐かしさを感じてしまいました。ついでにわたしの大好きな「耳をすませば」のバロンの冒険の洞窟のラピスラズリ鉱石の輝きもありました。他にもまだまだ盛沢山であり、絵の力そのものがさすがの宮崎節です。
おそらく我々観客はそれらのシーンを観ながら、かつてのジブリ体験のタイムトラベルをするような懐かしさとデ・ジャブ感にとらわれ、「これあの映画のあの場面だよねー」とか「なんだか懐かしい感じがある」と映画館でにんまりしたりホンワカしながらの方が多かったのではないでしょうか?
映画の内容自体は、いつもの宮崎作品らしくさまざまなメタファーと隠されたメッセージが散りばめられているのですが、これまでの作品と異なるのは、監督はあえてさまざまなメタファーの意味を絞り切ることをせずある程度の幅を持たせ、結果物語全体がひとつの明確な方向性をとらず、観る人にとって焦点や方向性が異なり、観客それぞれのこころにさまざまな残光を残すということです。 まるでこころの中で乱反射するかのように・・・。
そういう意味では本作は観る人によって賛否が分かれる作品になるでしょうが、そこが宮崎監督の目指したところでしょうし、これまでの作品がある程度熟考を重ね表現したい内容に狙いを絞った熟練者の工芸品としたら,本作はまさに観る人が自由に鑑賞に浸れるものの、観る人のもつ情報や感性にかなり多くの部分をゆだねる芸術作品と言えるのかもしれません。
もちろんわたしのこころのなかでも本作はプリズムのように分光し、こころの内側を照射してくれています。 それらすべてを挙げることはもちろんできませんので、以下に一部印象に残った点を書き残そうと思います。
まずやはりタイトルとの関係です。物語の中盤で、主人公の真人が、彼のためにと母が残した単行本「君たちはどう生きるか」を読むというエピソードが出てきます。この本を読んで涙して以来、それまで反抗的で悪いこころ(学友たちからのけ者にされ自ら頭部を傷つけたり、出された食事を一言『まずいっ』ですから・・)を持っているのでは?とも見える真人のこころが清らかに浄化され大きく成長したかのように変わっていきます。 とくに継母となる夏子への態度と言葉の変革は顕著です。そして夏子が消えた「別世界」へ夏子を取り戻す勇気の旅に出かけます。つまりその単行本を読んだ前後で人格の変化というか成長が大きく見られるのです。 そうした点でこのタイトルは意外と効いています。 ついでに宮崎監督から「君たちも人生を変えてくれるような素晴らしい本に巡り合うんだよ」と言われているように感じたりしました。
そして真人が行く「向こう側の世界」ですが、これはもう死後の世界でもあり、現世界を下から支えている世界ともとれる世界です。わたしもいい歳になり、この世界を離れたらどんな世界が待っているのだろう?ということをときに考えたりする年頃になりましたが、宮崎監督なりの死後の世界についての諧謔的答えと暗示がこの世界では豊富に提示されています。 無数のワラワラが現生に転生するために上昇していく際にペリカンに食べられ間引かれていくシーンはまさに無数の精子が受精卵にたどり着く前に間引かれていくようですし、ペリカンたち(庶民)が王様(専制君主またはそれに類する者)の下その世界を日々支えているのは現世界とも相似しています。
神道的世界のオマージュもあります。男子である真人を後継者にしたいと考えている「向こう側の世界」の創造者である大伯父さんは男系にこだわるのか、真人がだめならば、夏子に男の子を産ませるための儀式のなかに誘っているかのようです。
そして後継者への誘いに、すでにどう生きていくかという問題に対して目覚めている真人ははっきりと拒否を示し、もうすぐ本土敗戦という歴史上初であり想像を絶する滅びが訪れる予定の穢れた現世界に戻り、他者と協力して世界を再構築していくことを目指すことを表明します。 この辺りの件(くだり)はジブリというより庵野監督のエヴァのラストにいけるシンジのこころのような世界ですが、まあ広い意味で宮崎監督からすると、庵野監督も自分の仲間(もしくは弟子みたいな)ということなんでしょう。
なかなか意味深なのは、作品後半に大伯父が「わたしは3日ごとに13個の穢れていない石を積み上げて世界のバランスをとってきた。この世界を引き継いでほしい」と真人に懇願するものの、真人はあっさりとその申し出を断るシーン。 ちなみに大伯父はジブリを担ってきた宮崎監督自身であり、それと同時に真人自身も宮崎監督の分身と捉えられます。 その証拠に、偶然か必然か「13」という数字は宮崎監督が監督または脚本家として関わったジブリでの長編作品の数「13」とまったく一致しており、別世界での3日は現世界での3年に相当すると勝手に仮定すると、「自分は世界のバランスをとるために3年ごとに穢れなき13個もこころを解き放つ長編作品をこの世界に向けて作ってきたんだよ」との自負もありつつ、一方で自らの分身である真人(父親が戦闘機の風防を作っている会社社長の息子という設定は、宮崎監督の伯父さんがまさにそうした戦闘機会社の社長で監督自身はその甥だったそうで、小さい頃実際に戦闘機の風防を目にする機会もあり、真人に若いころの自分を重ねているのはほぼ確定です)によって、この大伯父(監督自身)の作り上げてきた浄化された世界の永続への望みを絶たせるということは、「 もう誰も自分の後を継がなくても大丈夫。丹精にコツコツと作り上げてきた穢れなきジブリワールドだったけれど、この先ぼくがいなくなったあとは一代かぎりの終わりでいいんだよ 」ということではないでしょうか?
そして物語の最期を迎え、さまざまな苦難を乗り越えて、夏子とともに現世界に帰還した真人は、アオサギから「さようならー、友だちー!!」との言葉をもらい、彼との永遠の別れを迎えます。 疎開地に来たころ、まったくこころの拠り所もなく友もおらず憎々しく孤独だった真人・・。 そんな真人がいつの間にかさまざまな体験や苦悩や決意を経て、こころの友だち・同志ができていることがこの物語の一番の見どころであり、真人の人間としての成長や苦悩の克服を感じさせられます。
そんなこんなでついに物語は大団円を迎えますが、ラストのラストで印象的なのは、いつもジブリ作品には必ずあるあの 「 お わ り 」 がありません。これはおそらくこの物語は本作を観たことによって「おわり」といった形で完結するのではなく、本作を観た後にこそ、現実世界のなかで観客の我々自身が、作品を観ただけに終わらず、本作を観たことに影響を受けて未来に向かってどう生きていくかの続きを営んでほしいとの監督の願いではないでしょうか?
「 ぼくはこんな形で幼少時からの苦悩や悪いこころを乗り越えて、こころの同志を得て作品を通してこころを表現しながら生きてきたけれど、これからの未来を背負っていく君たちはどう生きていくのかな? 」という人生の命題をしっかり考えて生きていってほしい・・との監督からの励ましを含む問いかけのように感じました。
これらはもちろんわたし自身にも投げかけられている問いであり、これからの時間、宮崎監督からの伝言を胸にしっかり悔いのない生き方をしていかねば・・・なーんて柄にもなく思っているわたしでした。
いずれにせよ、再度の修行が必要な作品であることは間違いなさそうです。 宮崎監督、カラフルでイマジナリーな万華鏡的作品をありがとうございました。
2023年
7月
01日
土
本作を梅雨のうっとしい雨が降りしきる夜にT-Joy東広島にて観てきました。
「怪物だ~れだっ?」というセリフを抱いた印象的な予告編とともに、小津安二郎的文学的映画体験を現代に創作できる、是枝裕和監督による新作でもあり、個人的に必見の作品でした。
こころにぽっかりと開いている夜の穴のような存在の諏訪湖に臨む街の片隅、子ども同士のけんかに端を発した教室での他愛もない事件が、さまざまな怪物的人物の言動により、徐々に大きくなっていき、当事者である小5の生徒、その母親、級友、担任、校長たちの日常を破壊し人生さえも変革していってしまう・・という恐怖感とともに否応なしに強く興味をそそる物語。 そしてその事件に携わったそれぞれの人物の立場から、事件が現場検証されるかのように事件の前後の時間を行ったり来たりしながら、事件とそれをめぐる人々の内面と日々の行動が重層的に表現されていきます。
この手法はかつての黒沢監督による「羅生門」的手法とも言えますが、わたしにとっては、ジャンルが異なる漫画なのですが、竹宮恵子「変奏曲」的手法と呼びたいと思います。
異なる文化や国、家族背景を背負い、偶然に出会いながら、それぞれ音楽という魂を捧げる対象を通して、かけがえのない共有された時間をそれぞれの登場人物の立場から重層的に表現された物語は当時まだ十代だったわたしのこころの奥底にぐさりぐさりと強烈に突き刺さり、「一見偶然に発生する事象や人の迎合には常にそれぞれの必然性と異なる視点が複数同時に存在し、光のプリズムのごとくそれら光の交錯により一瞬のきらめきがときに発生することがあり、それら残光の連続が人生を彩っていくものなのだ」・・という言葉にすれば、何てことなさそうながら、そんな人生観というか哲学というべきか、その未完ながら壮大な物語を通して、言外に感じさせてくれた作品が「変奏曲」であり、その後のわたしの人生に大きく影響を与えてくれたことは言うまでもありません。
本作「怪物」は映画ながら、久々に十代のころの「変奏曲」体験を思い出させてくれました。 それぞれの立場からのファンタジー(客観的事実を越えた、当事者にとってそう感じられたり、そう映ったり、そう体験したという想い込みと勘違いを伴う主観的体験)と言える万華鏡的観方を通して、事実を表現していくとそこに関わる人々はすべて怪物のごとくふるまい怪物になっていく・・・というファンタジーをわたし自身感じながら映画館でゾクゾクするような時間を過ごさせてもらいました。まさに映画的カタルシスの嵐です。
そのなかで、さすが是枝監督とうならせたのは、そうした大人を中心としたファンタジー的体験の混沌の嵐からの隠れ場所として、子どもたちだけのパラダイスをそっと添えてくれたことです。トンネルを抜けた誰も踏み入れない山の中に佇む「銀河鉄道の夜」から抜け出てきたような電車の廃墟。そのなかに作られていく子どもだけの夢の聖域。 大人には絶対に踏み込まれない世界がそこにはあります。わたしに限らず、子どもの頃にそうした聖域を隠し持っていた人たちのこころを鷲づかみにする映画的幻想シーンが映画のなかに散りばめられており、本作の大きな魅力のひとつになっています。
基本的にイノセントでありながら残酷なまでに気まぐれで率直なこども時代の揺れ動くこころや感性。ときにはひとを傷つけるようなひどい嘘や移り気もそこにはあります。 そんな怪物ともいえる子どものこころや感性が投入されたこの秘密の隠れ場所にはぐっと来るものがありました。誰もがいまもこころにその隠れ場所の欠片を抱えながら生きていることをいまさらながらに思い起こさせてくれた、まさに至福の映画体験時間でした。
ラストで子どもらの魂は山や光の風景を抜けてどこかへ旅立っていくというイメージが提出されますが、子どものこころを捨てずにどこまでもその魂たちがまた次の世界へ元気に進んでいってほしいと願うとともに、よく考えてみれば、本作を観る我々の現在の魂のありようこそが本作に登場してきた子どもの魂が変転(メタモルフォーゼ)した成れの果てであるのではないか?・・・というわたしなりのファンタジーを抱いての帰路となりました。
まだまだ観る人の数だけ切り口や語り口が存在する作品である本作は映画館的幻想体験の醍醐味を凝縮したような作品であり、映像幻影文学としての是枝節がしっかりとしみ込んだ快作でした。 カンヌ国際映画脚本賞をとるのも納得であり、ぜひみなさんも映画館にて魅惑の映画的ファンタジー体験をしてみてくださいね。
2023年
6月
03日
土
令和5年5月27日(土)の夜に懐かしい人たちと再会し、離れていた年月を乗り越えてそれぞれが歩んできた営みの道のりをささやかにお祝いしました。
4月のブログでも書きましたように、四季の心クリニックが10周年を迎えたこともそれはそれでめでたいのですが、そんなことよりも初代薬局長の小西くんが努力奮闘の末、この春に某公立医科大学を卒業し、医師国家試験にも見事合格し、医者という生業の入り口にたったのですから、お祝いしないわけにはいきませんでした。実はちょこまかと内輪のお祝い会などはすでにやっていたのですが、この小西くんを迎えるお祝い会が終わらないとわたしもクリニックも先へは進めないぐらいに感じていたほどです。
そして待ったこの日、この春からわが故郷である愛知県において研修医を頑張っている小西くんは、なんと前夜に当直をこなした後に新幹線で東広島まで遠路来てくれました。加えて、当時小西くんの上司であった竹村さんも忙しいなか福岡から駆けつけてくれました。もちろんわたしが東広島駅までの送迎をしたのですが、少し時間があったので車中談笑しながら懐かしい東広島の街をアテンドしてみました。わたしも来訪初めてである昨年秋にオープンした「道の駅のんたの酒蔵」を通り過ぎたり、新しくできた「ゆめモール」にも寄ったりしました。
その後ついに午後7時から西条駅前の焼き鳥屋さんにて宴は開かれたのですが、小西くんのいつもと変わらない優しい物腰と笑顔、竹村さんの寛いだ表情、スタッフの華やいだ笑顔の数々やつっこみ、小西くんへのお祝い物の贈呈などなど印象的でもうこの先二度と訪れないかもしれないという貴重な時間が過ぎ、お酒が進むにつれてわたしの脳髄は心地よい酔いとともに嬉しさと懐かしさも混ざり合い、ゆらゆらと揺れながら夢のなかで踊り続けるような状態になっていました。
それでも楽しい時間というのはあっという間とはよく言ったもので、いろいろな話に花が咲いたり、驚いたり笑い合ったりした結果、夜7時に始まった集いは気づけば11時30分をゆうに回っているという時刻になりやっと一次会はお開きとなり、有志(もちろん小西くんと竹村さんも)と二次会の西条駅前岡町の「Bar enishi」へと移りここでも熱い会話を閉店まで交わしつつ、気づけばわたしが帰宅したのは朝の3時前でした。コロナの影響もありここ3年すっかりなかった活動時間帯であり、わたしの心身活動限界(?)はとうに限界を過ぎていましたが、特別の日であり気持ちでなんとか乗り切ることができました。
談笑のなかで、医者になることを考え始めた時期、その決断に至った経緯や現在の心境、今後の展望などいろいろ熱く聞かせてもらいましたが、10年前にお互いに初の院長、初の薬局長として役割を担い初々しく出会ったときとほとんど変わらないはにかむような笑顔や相手を思いやる丁寧な振る舞いは医者になった今もほとんど何も変わっておらず、わたしのお酒に浸されたこころにもしみじみと浸透してくるような彼の表現は健在でした。
わたしにしても自分が医者を目指し広島の地に来訪したときのことに想いを馳せながら、楽しく寛ぎながら彼の医者にたどり着くまでの旅の話を心地よく聞かせてもらい、もうこれ以上の幸いな出来事はあるかというほどでした。これから先のことは誰にもわからないけれど、場所は離れていてもともに歩みを進めていきたいものだと酔っ払いながら思いを新たにさせてもらいました。
また彼の上司であった竹村さんも「そうごうメディカル」という大会社のなかで、さまざまなストレスを感じながらも元気に精一杯やっていることもうれしかったです。何よりも忙しいなかかつて部下だった小西くんのお祝いの会に九州から駆けつけてくださり、本当にありがたかったです。いつか小西くんともどもこのお返しは何かの形でする決意でいます。
もちろんクリニックのスタッフも開業時の5人のうち4人が10年たった現在もいまだに健在であり、新たにこの10年の間に加わったスタッフも元気で明るく前向き率直なスタッフが集まっており、本当に感謝に堪えません。お互いにときにはミスがあってもそれさえも笑顔で前向きに乗り越えていける環境になっており、前にも書いたかもしれませんが、いまのスタッフの雰囲気が一番わたしは好きです。
そんなこんなでなんとかハレの日の夜は無事終幕しました。 わたしも思い重すぎる荷物をなんとか担ぎおろせた夜になったような気がします。 この先何年いまのこの生業が続けれるかはわかりませんが、とりあえずは15周年のお祝い会ができるようまた日々精進していきたいと感じています。日々の事象はいろいろとあり、想定外で難儀な日もあれば、想定通りで軽快な日もあったり、予期せぬ嵐の日もあるのですが、こうしたハレの日を迎えれるよう日々の診療に精進していくことを決意した夜でした。
2023年
5月
15日
月
先日、久しぶりに仕事で京都を再訪してきました。保育園から小中高校まで同じ道をたどった竹馬の友や高校の同級生数人が京都大学に進学していた関係で、京都は若い頃から数えきれないほど訪れている麗しの街です。
わたしにもかつて若き思春期のころがありました。その時期わたしにとって京大は憧れの大学であり、高一の春、日帰りで同じく京大好きだった竹馬の友と青春18きっぷで京大見学(愛知から往復200キロを超える京都への道程は家族には秘密の旅でもあり高一のふたりにとっては結構な冒険でした)に訪れたり、高校の友人から勧められて「吉田寮」(彼はその後京大に進学し「熊野寮」に入寮します)での生活を基にした実話を描いた岩波新書「紅もゆる」を読んでからは、その世界に憧れ「いつか京都で学生生活ができれば、どんなに素晴らしいだろう」なんて夢想したこと数百回ありました。しかし残念ながら縁がなかったようで、京都の学生として学生時代を過ごすことはかないませんでした。それでもその当時京都で知り合った友人のなかにはいまも京都在住の方もいたりするので、距離的には遠くてもこころのレベルではいつも近くにある街です。
そんな個人的思いの強い街でコロナも落ち着きをみせて久々仕事のセミナーで京都を訪れることになったのです。宿泊ホテルは京都駅直結のグランビアホテル。お約束のローマのスペイン坂のごとくイルミネーションに映える長い階段も昇ってきました。そして朝、世界的にはとっくにコロナ終結している影響か朝食のビュッフェは白人だらけの会場にやや戸惑いながら「さすが世界的観光地京都だな~」と感心し、セミナー会場はホテルオークラ京都(ここは長州藩邸跡で桂小五郎の像も玄関脇にありました)でした。 無事しっかり仕事を終え、このまま京都駅に直行し、帰広すると思いきや、ささやかな郷愁に誘われて、美味しい京都ラーメンも食べたくなり、2条の「麺や 高倉二条」での腹ごしらえを皮切りに、街角の品ぞろえの素敵な本屋さん「レティシア書房」に寄ったり、本能寺に寄ったりしながら、気づけば桂川の三条大橋に出て、そのまま西の河原(今回の写真です)に降りて三条から五条大橋(国道一号線)までを歩き、その後南西に向かい、高瀬川沿いを伝い歩き、七条まで降りて、スタッフから推薦されていた京都タワー登頂初体験を経て、無事京都駅にたどり着き、帰ってきました。
もちろんもう何度も何度も歩いたことのある既知のコースなのですが、そこで見かける人々はつねに異なり、歩くわたし自身も以前の心境とはもうまったく異なった視点をもってしまっており、いつも不思議と楽しめるのです。この日もしっかり京都の風景に抱かれながらの散策を満喫させてもらいました。初めて京都の街を友人とふたりで訪れたあの高一の春からいったいどれぐらいの年月がたったと考えると、「思えば遠くへ来たもんだ~」と鼻歌でも歌いたくなりつつ、これから自分に残された時間をどのように充実したものにしていこうかという思案にもふけったりしながら、気づけばJR京都駅に着いていました。
広島に帰れば、また日常の仕事が待っていますが、それも捉えようであり、次の京都を訪れるまで日々懸命に生業をこなせば、また今日のようなご褒美の時間もやってくると信じ、スタッフや家族へのお土産を買いこみ、新幹線での帰路に着きました。
ありがとう、京都。また来させてください。
2023年
4月
20日
木
令和5年4月15日(土)、有明の東京ガーデンシアターで行われたボブディラン日本公演に参加してきました。ボブのライブ体験は通算3回目となります。前回は2014年の福岡公演でしたので9年ぶりです。
白状すると、元々ビートルズファンだったわたしは高校卒業後に何か哲学的というか文学的な香りに惹かれて遅まきながらボブディラン・デビューを飾りました。もう60年代どころか70年代のディランも終わった80年代のことです。
最初に聴いたアルバムは「ボブディラン・グレイテスト・ヒット」。あの「雨の日の女」で始まり、「女のごとく」に終わる初期の煌びやかな楽曲たちに溢れたアルバムです。これを買ったのではなく、当時流行りのレンタルレコード屋さんで借りてそのままカセットに吹き込み、AIWA製の擬ウォークマンを通して大学に通学する電車のなかで、繰り返し飽きもせず聴いていました(何故かモーツアルトのピアノ協奏曲や交響曲体験もこの時期でした。モーツアルトにも何かを感じていたようです)。 当時はビートルズやサイモン&ガーファンクルのようなメロディの素晴らしさはないものの、ディランには彼の言葉に何かがある予感がありました。本能的にとでもいうように感じていたのです。
わたし自身は個人的レベルにおいては「とにかく大学には寄り道なく入らないといけない。かつ国公立大学への進学のみ。浪人は絶対に許されず現役合格なければ就職・・」という過酷な運命というか生活の掟のような重荷を背中にずっと背負い、やっとこさ条件をクリアする国立大学に入ったものの、受験勉強に精を出し過ぎたおかげで世間のことは何も知らずです。受験勉強には一生懸命に励んだものの、世界のことをまったく何も知らないウブな状態。 おぼこさ100点満点の18歳大学生活の始まりであり、なんとか大学では今後の生きていくための糧というか哲学というか精神的支柱を見つけなければならない・・という想いが強くありました。時代的にそういうムードがあり、まだ「反体制」とか「左翼」とか「右翼」とかいう言葉が生きており「朝日ジャーナル」などが反抗的な若者の精神を煽る元気な時代でした。そのなかで「ボブディランというアメリカ人はなにか人生の大切なことを唄っているように思えるし、きっと何かこれからの人生に関わる秘密が見つかるに違いない。何としてでもそれを探らないと」・・という思い込みで聴きはじめたような記憶があります。
当初、根っからのポップ好き(今もです)で、小学校からずっとビートルズファンのわたしにはディランの一聴めは比較的ポップな「I Want You」以外はまったく耳に引っ掛からなかったものです。まさに「なんじゃぁこりゃぁ~!!」てな感じです。それでも何百回と繰り返し聞くうちに詩の内容も把握できるようになってくるうちについには耳になじみ自然と自分の生活の中でなくてはならない音というか概念になっていきました。とくに20歳前後のわたしはまさに高校時代までの窮屈な生活の反動もあって「Like A Rolling Stone」状態であり、激しく忙しいバイトの「嵐からの避難所」として大学に通うというような本末転倒の、まるで陽の光から遠ざかり「地下で憂鬱」に暮らすかのような、そして小金が貯まるとふらふらと貧乏ひとり旅に出てまさに「風に吹かれて」いるような生活でありました。いつの間にか、ボブの唄うホーボー感覚の枯れた、「雨の日の地下室」のその狭い小さな窓から空をにらんで歌い続けるような孤独な歌声はつねにそんな自分に叱咤とこの先の光を示唆してくれるような音楽になっていきました。
もちろんベストアルバムでとどまることはなく、それからアルバムごとに驚くべき衝撃の変化が続く初期60年代のオリジナルアルバムを次々と聴いていきます。とくに「ブロンド・オン・ブロンド」まではまさに奇跡のような展開です。 そしてモーターバイク事故後のウッドストックにての運命を変えた小休止があり、70年代の「血の轍」にも衝撃を受けました。「Like A Rolling Stone」もそうなんですが、音楽でこういう感覚を表現できるんだ・・とあらためて思い知らされました。
ディランの曲は無骨で伴奏にもあまり工夫なくそっけなく歌わるので一聴しただけではなかなかこころを捉えないのですが、それらが素晴らしい楽曲であることは、ほどなく知ることになったディランの最も良きカバーバンドのザ・バーズを知ることで、確かなものなっていきました。また同じ時期に強く感銘と影響を受けた佐野元春さんもディラン・フリークであったことも大きかったです。毎週月曜深夜に放送されていたFM NHK「サウンドストリート」のDJとしての佐野さんによる音楽紹介は本当に素晴らしくディランはじめさまざまなロック・ジャイアントの音楽を教えてもらいました。そうこうして洋楽的には「ビートルズ~バーズ~ディラン」がわたしのこころの3本の矢に育っていきました。
正直ビートルズもなかなか深いものがあるのですが、ディランの言葉の深さときたらもう潜りがいがありすぎて、わたしのようなこころの肺活量の少ない者にとってはこころの深海で窒息しそうなほどでした。当然豊富な楽曲はその後のわたしの人生とも密接にかかわりあっていくのですが、これを表現すると一遍の物語となってしまうので、それはまた別の機会にさせてください。
そんな若き時代からはや数十年がたち、さまざまなディランの音楽を聴いてきましたが、正直21世紀に入ってからのディランのしゃがれて老成した歌声に対しては、どうも違和感があり、ニューアルバムは必ず購入するものの、一週間ぐらい聴いたらあとはお蔵入りという感じで同時に発売されているブートレグシリーズの方に熱狂するという少し捻じれた有り様でした。
そんなやや不遜なディランファンのわたしですが、9年ぶり福岡Zepp以来の迎合になるので、時間を縫って新作「ラフ&ロウディ・ウェイズ」を何とか聴きこんで、今回のライブに臨みました。
81歳になったディラン。どんな声になってしまったの?という不安と期待の入り混じったライブでしたが、しゃがれた声ではなく、穏やかで深みのある大人の声になっていました。東京公演では客電を落としていないこと、事前に曲のセットリストが判明していたこともあり、アルバムを中心とした歌詞カード持参で参加したところ、しっかり読める状態だったので、リアルタイムでディランの生声に耳を傾けながら直接言葉の意味内容が入ってくる体験ができました。それらを通してディランのいま感じていることをわたしなりに受け止めました。
ディランの魂は現在、生と死の挟間を行ったり来たりしながら、「まだもう少しこちらでやることがあるから、Black Riderよ、まだ迎えはいい」と歌いながら、「自分はもう長く生き過ぎた。わたしは自分の人生よりもすでに長生きしてしまっている。わたしは身軽な旅をしている、ゆっくりとふるさとに向かっている」とも語るように歌い、死に近づきつつある身を顧みたりするフレーズも印象的でライブのなかで魂を彷徨させていることがよくわかりました。
おそらくディランは1990年代のネバーエンディングツアーを開始した頃から、音楽ツアーそのものを人生を営む家と見定め、世界中の至るところを我が家のごとく訪れ、夜になると生きて食事をするようにステージに立ち自らの魂と自分を通り過ぎあの世へ行ってしまったこれまでに出会った魂たちの開放を唄うことを営みつづける人生を選び、その進んでいく時間のなかで徐々に衰えていく肉体を自覚しながら、魂だけはライブという営みを通して毎夜甦りを繰り返すという時間を過ごしているのだろうとほぼ確信する夜になりました。
そしてやはり特筆すべきは前回に比べても明らかに声がかなり元気に出ており、一時期のしゃがれて枯れきった声というよりも温かく深みのある優しい声となっていました。さすがにギターを持って歌うことはなく、ほとんどをピアノの前に座りながらの演奏でしたが、バンドと共鳴し、ジャズのようなリリシズムもありながら、ロックのダイナミズムまでも併せ持つまさにジャンルを超越したディラン・ミュージックとなっていました。この瞬間はつねに一期一会なんだということをディランの奏でる音は雄弁に語っていました。
また会場である東京ガーデンシアターが素晴らしく、4階席まであるスタンドの客電が降り注ぐ星たちのようで、ディランもステージから星の子どもたちに歌いかけるような気分で気持ちよくライブできたのでは・・?と思い、そういう箱を作った日本人職人に感謝をしつつ、ディランも「さすが日本は何度きてもBeautiful Worldだわい」と感じてくれたのでは・・と想像したりもしました。
いずれにせよ、今回の素晴らしいライブ体験を通して「21世紀のディラン」をもう一度探索してみる気になりました。彼の魂の軌跡は、自作曲だけでも700曲近くにもなり、わたしにとってもひとりの人間がたどった魂の軌跡として今後もしっかりその曲を味わい楽しみ鑑賞していく決意を固めました。ノーベル賞もとるぐらいなので作品の量も質も深くひろ過ぎていくらでも時間がかかりそうですが、わたしも診療という生きていく糧であり旅の日々を縫いながら、時々ディランの世界に向き合い、魂を磨いていく行程を深めていきたいものです。
今回のライブ、もしやディランとの今生の別れかもしれませんが、「キーウェスト」への旅の途中また日本に寄られる際は必ず馳せ参じる決意を固めてのしばしの別れとなりました。
そしてわたしもディランと同じ時代に生きる人類のひとりとして、広島に戻れば日々の営みが待っており、ディランにまでは及ばぬとも、今後生きていく営みもしくは大切な場所として診療に取り組んでいくこととします。
2023年
4月
08日
土
ついに春がやってきました。 そして令和5年4月四季の心クリニックはおかげさまで満10年を迎えました。
本当にあっという間の10年間でした。開院したころはいつまで続けれるだろうか?という不安と気楽な気分を感じながらの船出でしたが、さまざまな人の支持と援助があり、よちよち歩きだったクリニックも10年という区切りを迎えました。
クリニックに関わってくれたすべての人に感謝を伝えたいです。いつも見守ってくださり誠にありがとうございます。
我ながらこの間いろいろな人と出会い、別れの時間を共有できたように思います。過ぎ去ればすべては美しく儚い時間であり一瞬一瞬がすべてであり素敵な経験でした。そこでは病院勤務のときとは一味違う人たちとの出会いや治療が10年続いてきたわけですが、これらの時間を通してあらためて気づいたことやわかってきたことが積み重ねられてきており、わたしもスタッフも開院時よりもさまざまな点で少しは成長しているような気もします。しかしこれらはクリニックではなく地域でともに生きる人たちとの共有財産であり、今後も日々の診療を通して着実に積み重ねていきたいものです。
何よりうれしいのは、クリニック開院当初のスターティングスタッフ5人のうちいまも4人が元気でともに働けていることです。みんなそれぞれ当時より10歳年を取り、20代のスタッフは30代に、30代のスタッフは40代になりました。現在は新たに3人スタッフが増えていますが、これまた古参のスタッフと良い雰囲気で交わり働けています。いまが一番いいと自信を持って言える状態であり、来るべき15年後も同じことを言えるよう日々精進していきたいと思っています。
ともに10年を迎えた「そうごう薬局御薗宇店」も、常に必要最小限の薬物療法を目指すクリニックを温かく見守り支えてくれておりこれも感謝です。薬局長は10年のうちに4代めを数えていますが、ここでひとつ特筆すべきことがあります。初代薬局長の小西さんが薬局卒業後某公立大学医学部に入り直しなんとこの春に正式に医師になり研修生活に入りました。どんなお医者さんになるか今から楽しみですが、5月にはその彼を迎えてこの地で祝宴を開催できることも望外の慶びであります。
そうは言ってもまだ10年。されど10年であります。この先もこころを探求する、長く曲がりくねり不透明な道が続いていきます。わたしはもちろんクリニックに携わる者がその路上で謙虚に精進し、来院される患者さんに対していつまでも誠実に親切に明るく接することができるクリニックでありたいものです。
安易にこの先10年頑張るなんと言ったら、来年にも終わるかもしれません。時代は着実に確実に変化しつつあり、我々もつねにそれらを敏感に感じ取りながら、来院された患者さんに対して、初心を喪うことなく適切な医療的ケアを施しつづけることを目指していきます。
なんだかんだ言いながらとりあえず15年の誕生日を笑顔で迎えることができるようまた少しずつ歩みを進めていきます。いろいろといまだ未熟な部分もありますが、11年目に歩み始めた四季の心クリニックを今後ともよろしくお願いいたします。
P.S. いつものことながら、支えてくださる人たちから今年はとくにありがたいお祝いの気持ちを多数頂きました。本当に本当にありがとうございます。ここで地域の人たちのためにこころの医療ケアを誠心誠意実行していくことでお礼に変えさせてください。個人的なレベルにおいてはついにコロナ騒ぎも5月には実質終結しますので、そうなったら飲みに行かせてくださいね。
*ちなみに今回の写真はクリニックから歩いて10分のところにある西条の街を流れる黒瀬川の土手の桜です。この土手もなかなか素敵な桜の散歩道に成長しています。最近ウォーキングを精力的にするようになりその際に撮ってきました。
2023年
3月
17日
金
本作を令和5年3月、桜の便りがそろそろ届きそうな春の夜にT-Joy東広島1番シアターにて劇場体験してきました。
本作は「待望」という言葉がぴったりの庵野監督による「シン」シリーズの最新作です。わたしは庵野監督よりも半世代ほど下になりますが、石森章太郎先生による「仮面ライダー」のテレビ初放映が始まったときはちょうど小学生になったばかりの頃であり、それはもう衝撃をくらったまさに初期ライダーど真ん中の世代です。当時こどもたちのこころに大旋風を巻き起こし、社会問題にさえなった仮面ライダーカード(カルビーのスナックのおまけですが、おそらく40代以下の方にとってはそれなに?という代物ではないでしょうか)を遮二無二集めた過去もあり、当時幼かった小学生のこころを何故日常でのしんどさや苦難を忘れるほどあれほど鷲づかみにして熱狂させてもらったのか未だに謎であり、本作を観ることによってその答えが少しは解きほぐされるのでは・・との期待を抱いて映画館へ馳せ参じました。
なのでライダーについては何時間でも熱く語れるほどのかつてのファンであり、さまざまな想念が潜在意識の領域からマグマのように噴出してくる故思いつくまま書き連ねますので、以前のシン・エヴァンゲリオンについてのブログと同じように訳のわからないまとまりのない文章になってしまう恐れがあり、以下の文章は軽く読み飛ばすか、ご笑読するかされてくださいね。
さて庵野監督の「シン」シリーズのすべてに言えることなのですが、本作においても時代を越えて現代でも通用する舞台設定をしっかり導入しており、とくに悪の組織SHOCKERについてもそのロゴの複雑な言葉遊び(当てはめ)も含めて彼らなりの役割と目的を与えており、監督はいつものようによほど元作のことを読み込んだうえで、愛をこめて「シン」化させているのだと感じ、真っ暗な画面でニヤリとしてしまいました。
映画の冒頭でいきなりライダーの拳の打撃による激しいグロテスクな血が吹き飛ぶアクションシーンがあります。まさに「ライダーパンチ」です。このパンチにより敵の胸は張り裂け血が乱れ飛ぶ残酷なシーンに正直身震いします。ライダーってこんなだっけ?という想いも少し湧きます。しかし考えてみれば、ライダーの武器って「ライダーパンチ」か「ライダーキック」ぐらいしかないのです。素手で敵を打ち倒すにはこれほどの衝撃のある身体に改造されたということをグロテスクなシーンで再認識させようという監督の意図に早くもうんうん当然そうなるよな・・と納得です。
考えてみれば、放映当時はあまり意識しなかったのですが、仮面ライダーもショッカーも基本的に刀や拳銃などの外からの物質的武器を使わず、あくまでも自分の肉体に備わった能力のみで勝負しており、この素と素の身体のぶつかり合いがとても魅力だったのかもしれません。「漢と漢は武器など持たず、素手で勝負~」ってな感じです。これなら幼くてお金もなにも持たない小学生たちでも変身ポーズひとつでライダーになることができ、パンチやキックを繰り出すという「ライダーごっこ」に興じれたのもこういうわけだったのかもしれません。(その点、Xライダーではバトンのような武器を使用しており、そのころからわたしはライダーを徐々に卒業していったことに今回気づかされました)
唯一ライダーが使用する武器とも言えるのが「サイクロン号」と呼ばれるバイクなのですが、これは武器というよりは、ライダーとともに戦い、ときには助けてくれる仲間または下僕(しもべ)のような役割になっており、当時の高度成長期70年代の子供たちは共に居てくれるペットを飼うことに憧れていました(わたしもポチと名付けた犬を飼っていました)が、このしもべとのコラボレーション、助け合いもグッとくる要素でした。正義の味方の定番です。 わたしもライダーだけでなく「人造人間キカイダー」、「バビル2世」、「勇者ライディーン」などにならって、しもべとしてマイ自転車に「〇〇号」と名前を付けていたことをふと思い出しました。 後年中型バイクの免許を取得することになりますが、おそらくバイク乗りになったこともそうした影響を受けていたような気がします。
バイクというのは人間の独力では達成不可能なスピードでこころとからだを未知の世界へ誘ってくれる頼れる相棒であり、風を切って人馬一体となり風景をどんどん置いていく爽快さがスリルとともに素晴らしいのですが、その当然の結果として 「ふと気づけば相棒とひとりぼっち、人が訪れることもない岬の先・・」というような寂しさが常につきまといます。 本作はその寂しさや孤独感も本郷猛というキャラクターを通して表現されており、加えてトンネルでの爆走シーンが典型ですが、バイクのもたらす爽快感やスリルも画面いっぱいに余すことなく表現されており、仮面ライダーの一番の表の本質がしっかり押さえられていると思いました。
そして何と言ってもライダーの底を流れる隠れた魅力は人間世界の不条理です。本郷猛もある日突然気づいたらバッタと人間のあいの子に改造されているという不条理な体験を背負いながら、悪のショッカーと孤独に戦い続けていくのですが、本作では本郷自身はもちろん、敵のチョウオーグ(仮面ライダー零号)自身にも過去に目の前で親を喪うという強大な不条理があったという映画ならではエピソードを加えており、さすがは庵野監督でした。
本作で意外であり結構驚いたのはライダーシステムの科学的考証に「プラーナ」の概念を入れてきたことです。「プラーナ」は中村天風師は言うに及ばず、最近では秋山弁護士をはじめ「不食」成功者のみなさんが提唱したりもする、元々はヨガで唱えられている空気中に漂う生命エネルギーの源でもあり、現在我々のような医療に携わるものでさえ気になる生命の源となる概念なのですが、その「プラーナ」をライダーの強さの秘密に導入してくるとはいやはやなんとも現実と虚構の交錯に頭がクラクラしてきました。
一方でさすが庵野監督、「プラーナ」のことまでもよくご存知なんだな~という畏敬の念も本作を通して新たに感じたりもしてわたしも日々こころとからだの深い不透明な世界をこれからも探求していくという気持ちにさせられました。
本作中では、政府側の味方の苗字があの本郷猛をつねに見守り支援していた「おっちゃん」の「東郷」であったり、その後「仮面ライダーV3」に登場し「ライダーマン」に変身することになる「滝」であったり、人工AIの完成品としてやはり石森先生原作の「ロボット刑事K」も登場させていたり、ラストシーン山口県の角島大橋を滑走する2号ライダーのヘルメットが当時の少年ライダー隊のカラーリングにひっそりと変更になっていたり・・・などなど当時を体験していたファンの心をくすぐる隠し小ネタ満載だったのもオーそう来たか~と楽しませてもらいました。
以上ライダー映画ごときを観ていい大人が一体なにを言っているのだと言われるような内容であり、笑読していただければ幸いです。仕事の場では決して見せないわたしの一面です(笑)。それだけに、本作は庵野監督にしては、ライダーという作品に忠実なあまり、映画としては全般的に暗い内容になっており、爽快感やカタルシスも足りていません。わたしのように初期の暗いライダーがデフォルトであり、本来の姿である・・と認識している世代にはうけるかもしれませんが、平成以降の比較的明るいライダーの世界観に慣れている方たちにはあまりうけないのでは・・?とうい一抹の不安も感じたりはしました。
それでも仮面ライダーについては泉のようにさまざまな思い出があり、例えば、「仮面ライダー」がなぜ令和にまで延々と繋がるシリーズ化になったかという、2号ライダー誕生エピソード等々面白い逸話諸々満載なのですが、その話はいつかお酒を飲みながらの四方山話でさせてください。
最後に、仮面ライダーの魅力はその長い歴史ゆえ誰もが自分の体験したライダーを楽しく語れることではないでしょうか。 どんな大人になっても目をキラキラさせながら自分の好きだったものやを語れる大人になりたいものです。 さすがに本作の展開であれば、庵野監督による「シン・仮面ライダー」の続編はないでしょうが、この先の時代、日本が続く限り仮面ライダーは永遠であり続けるはずであり、仮面ライダーのようなヒーローたちに励まされながら、幼きこころを育て現在も正義を愛する大人になってしまったわたしもショッカーを倒すほどのプラーナ・パワーはないものの、地域の皆さんのお役に少しはたてるよう日々プラーナを増やすべく精進することをこころに秘めて映画館を後にしました。
石森先生、庵野監督、作品に携わった多くの方々に「ありがとう」を言わせてください。日本のこどもとして昭和の時代に少年時代を送らせてもらったわたしは本当に幸運でした。
P.S.庵野監督、こうなれば実現困難なのは重々承知ですが、「シン・マジンガーZ」もしくは「シン・ゲッターロボ」制作の検討をよろしくお願いいたします。楽しみにしております。
2023年
1月
03日
火
明けましておめでとうございます。
令和もはや5年めを迎えました。クリニックも本年4月で満10年を迎えます。この間、地域のさまざまな方々とこころの医療を通して触れあい、ともに生きてこれてきたように感じています。この日々のさまざまな出会いと季節の移り変わりには感謝しかありません。
ちなみに今年の年末年始は「クリスマス寒波に負けない正月寒波がやってくる」との天気予報(見事にはずれましたが)もあり、スタッドレスタイヤ(オールシーズンタイヤではあります)でない自家用車のことも考慮して、2年ぶりに帰省なしの元旦を淡々と迎えました。 昨年の伊勢湾台風並みの台風の襲来との予報も見事にはずれましたが、この頃の予報や観測は常に悪い面を強調しすぎており、今回もまたまたそれに翻弄された形となってしまいました。
地域を越えて日本全体のころを思うと、この3年間は残念ながらコロナ騒動に振り回されつづけた我が国ですが、ワールドカップなどのマスクなしの熱狂からも明らかなように世界の大部分においては昨年じゅうにすでにコロナのトンネルを脱け出したようです。そして我が日本でも世界からは大きく遅れながらもついに出口がほのかに見えてきたようで、春にはすっきりマスクのない笑顔で皆さんと触れ合い語り合えそうな予感です。
そんなこんなで今年も明るく元気で前向きなスタッフとともに微力ながらこころの医療を通して地域の皆さんの力になれるよう精進努力していく所存ですので、四季の心クリニックともどもご愛顧のほどよろしくお願いいたします。
本年もよろしくお願いいたします。
2022年
12月
24日
土
暮もいよいよ押し迫った休日の昼に本作をT-Joy東広島にて鑑賞してきました。 日本スポーツ漫画史上5本の傑作に入る原作漫画を基に、原作者井上雄彦さん自身が監督を担った作品であり、かつてテレビアニメ化された本作ですが、ややつなない作画であり、根強いファンからするともっと素晴らしい作品にできるはずなのにという想いを募らせていただけに、今回の井上監督自身による作画、映画化はそういった面での不満を吹き飛ばすどころか、さらなる飛躍が期待できそうであり、かなり期待しての鑑賞になりました。
冒頭の登場人物らが登場するシーンからして、監督自らがペンをとった線であることはほぼ明らかであり、バスケットの試合を本当に観ているかのような錯覚にとらわれるほど描きこまれており、まずは作画に大満足。
さらに物語の内容そのものも,漫画での最終戦となる山王工業戦を縦軸に、宮城リョータの生い立ちとバスケットに懸ける秘めた想いを横軸に、念入りに編み込まれたタペストリーのような作品として原作を基にしながらさらに広く深い新たな世界が表現されており、全編にわたって、「さすが井上雄彦だな~」と嬉しさとともに嘆息が出るほど素晴らしい作品でした。
本作については、巷でも指摘されているように(わたしは同じ漫画やスポーツ好きの親友から指摘を受けました)、スポーツ漫画のもうひとつの名作ドカベン31巻(複数の登場人物の少年時代の逸話をすべて収録したこともあり31巻のみ異様にぶ厚い本となっていました)の影響があるようです。山田、里中らが新2年生の春の甲子園での土佐丸戦での、山田、里中、岩城、殿馬らの明らかにされる過去の逸話が挿入されながら、これまでで最強のライバル犬神と対峙しながら進行していく決勝戦。そして最後に殿馬の秘打「別れ」による勝利。今回のリョータの逸話をはさみながらの物語の進行はまさにドカベン31巻を踏襲するかのようにシンクロしており、まるでドカベンへのオマージュとなっているようです。
どうやら井上雄彦さん自身も「ドカベンを読んだことが漫画家を志すきっかけになった」と語っておられるほどドカベンファンであり、またそのなかでも分厚い31巻に対する思い入れが強いようです。そういえば原作コミック「スラムダンク」の最終巻はなんと31巻でした。
わたしも個人的に「ドカベン」をリアルタイムに読んでスポーツの素晴らしさに目覚めた世代であり、これはうれしい発見でした。また「ドカベン」もアニメ化に関しては線の細い貧弱な作画が残念であったアニメ作品であり、できれば亡き水島新司先生の遺志を継ぎ、どなたかが(井上雄彦先生なら最高です)再度迫力あるアニメ作品としてリメイク(もちろん春の土佐丸戦も良いのですが、いわき東高校戦なども物語としては泣けます)してほしいなんていう叶わぬ夢を本作を観てこころに描いたりしました。
また本作品ではまだまだリョータの逸話しか挿入されておらず、ドカベン31巻での多数の登場人物の逸話には数としては遠く及ばずであり、一ファンとして今後、桜木はもちろんゴリさん、流川、仙道、メガネくんらの逸話をサイドに挿入しながら、さらなる「THE SECOND SLUM DUNK」「THE THIRD ・・」といった感じで新作映画版を期待したいものですが、これはさすがに儚い夢ということにしておきましょう(笑)。
2022年
12月
08日
木
本作を暮が押し迫った12月のとある夜にT-Joy東広島にて鑑賞してきました。 結婚していた男が実は素性の不明なまったく別の男だった・・というなかなか思わせぶりな予告編を観てから気になる作品であり、なんとかタイミングが合って観ることが叶った作品です。
わたしは幸運にも平野啓一郎さん原作の小説のことを読んでないどころかまったく知らずの人間なので、子どもまで作り家庭を営みながら、妻に素性や正体を隠して生きていくしかなかった男の過去やその動機が映画の進行のなかでどう解き明かされていくのだろうという興味で本作に臨み、ほぼ最後までその気持ちのまま鑑賞し終えました。
映画が進むにつれて、なるほどそう来たか~という謎解きの気持ちよさが徐々に深まっていきます。それと同時に謎の「ある男」の素性と謎解きの狂言回しの役割となるはずの普通の弁護士(妻夫木聡さんが好演しています)の内面が複雑にシンクロしていき、「ある男」とは実はひとりではなくふたりであり、また観ている自分だってほんの少しのきっかけで本作のように「ある男」になっていた可能性だってあるという暗い示唆が映画全体に漂っており、さすが平野啓一郎原作というべきか、シュールでシニカルな面の強いかなり文学的な佳作でした。
本作の感触はわたしの大好きで尊敬しすぎてもし足りない、イギリスのケン・ローチ監督が制作しそうな味わいや影のある作品であり、いつまでもこころの隅に引っ掛かりを残す素敵な佳作でした。
2022年
11月
17日
木
本作を上映開始間もない11月の日曜日にT-Joy東広島にて鑑賞してきました。 言わずと知れた「君の名は」「天気の子」に続く新海誠監督の最新作です。
このブログでは新海監督と細田守監督の全作品をこれまでに取り挙げてきているのですが、日本アニメ界においてそれぞれ独特の陰と陽を表現する至宝のふたりです。しかし以前のブログでも触れたように最近では、かつての新海監督が陰、細田監督が陽という単純な構図ではなくなりつつあり、ふたりともそれぞれ陰と陽が作品内に混在するようになり、それに伴い作品に深みが出てきていますので、本作でもそれらがどのように表現されているのか楽しみにして映画館に駆け付けました。
新海監督の作品は音楽にしても絵の表現にしても作品ごとに徐々にパワーアップしているのですが、本作もその期待にたがわぬものになっていました。
よい作品は複合的な要素が常に盛り込まれており、本作も当然さまざまな複合的要素がとりこんであり複数回の鑑賞に耐え得る作品ですが、それでもやはり新海監督の初期のころからのメインテーマである「少年と少女の出会いと別れ、そしてふたりのその後」がしっかり中心に据えられていました。
過去の悲しい出来事によりこころに欠落を抱えながらも、九州(おそらく宮崎)で元気に育つ岩戸鈴芽(天岩戸神話の踊り子アメノウズメから引用?)。そんな彼女がある日出会う謎の多い素敵な男性・宗像草太(宗像神宮由来?)に出会い、彼の生業である「扉の戸締り」を通して、日本各地を回り、人々の温かさに触れあいながら内面的に成長し、最後に育ての母(実母の妹)自身の葛藤と確執の表出に直面しながら、母親を喪った災害(東日本大震災)の故郷にたどり着き、彼とともに後ろ戸の戸締りをやり遂げます。その間、草太への自身の想いに気づき、自分自身の存在意義も確認しながら、これから待ち受ける未来に向かって歩いていく決心をしていく物語です。
もちろん本作は上に記したような物語の主題にとどまらず、さまざまな示唆と映像美(とくにいつものことながら写真のようなリアルな風景描写と階層豊かな色彩の空や雲や空気の表現には圧倒されます)、素敵な音楽や歌声にも満ち溢れていて、まるで物語の万華鏡であり、上質な表現に触れた時間となりました。
一方で、少女の成長物語の裏物語として、日本神話における災害(ミミズ;オロチでもよかったかも)とそれを防ごうとしてきた人々(閉じ師)の闘いも示唆されています。
さらに大きな視点で俯瞰すると、東日本大震災による喪われた魂たちの救済という面もあり、地震をはじめとした災害に見舞われやすい我が国ならではの作品でもあります。
そしてこれから起こるであろうさらなる災厄への警告という面まであります。とくにいま巷で話題になっている2025年7月に訪れると予言されている津波を伴う災厄についての示唆も個人的には感じたりしました。
なんやかんや言っても本作はまた再修行となること間違いなしの奥の深い作品であり、こうした映像も音も物語も雄大な作品は劇場で観ることが一番であり、わたしも新海監督の印税アップにしっかり貢献すべくまた劇場で修業し、この文章も都度グレードアップしていこうと思います。
新海監督、またまた素敵な作品をありがとうございました。わたしも人との出会いと別れを常に大切にしながら、日々を生きていく所存です。
2022年
10月
06日
木
本作を秋の気配が濃厚になってきた木曜日休日の昼下がりにT-Joy東広島にて鑑賞してきました。
ご存知、福山雅治さん演じる、東野圭吾さん原作のガリレオシリーズの映画としては第三作目の作品となります。何と言っても、第一作「容疑者Xの献身」が大傑作であったため、わたしとしてもその後の映画版は欠かさず修行しております。
本作はシリーズ中最高傑作という前宣伝もあり、「ホンマに~?」と期待しての鑑賞となりました。
本ガリレオシリーズは探偵推理ものと思わせながら、推理トリックの妙より実は不可解な事件をめぐる濃厚な人間ドラマとなっている点が魅力なのですが、本作でもその点は十分発揮されています。
本作の一番の魅力は、殺された女子高生をめぐる街の温かな人達たちの営みに心を打たれます。小さな居酒屋を懸命に営む両親の長女として育ち、両親の愛をいっぱいに受けながら、同時にお店に通う人々からも可愛がられながらすくすくと素直に育った彼女。その一方で歌うことに非凡な才能を持ったことにより、街の祭りでののど自慢大会を機に地元在住の音楽プロデューサーから認められ、まるで家族のように実の娘のように音楽レッスンを受けながらついに歌手としてのデビューが目前にせまっていた彼女。素敵な彼との恋も掛け持ちしていた彼女。そんなたくさんの幸せに満たされていた矢先に突然失踪し、数年後に骨だけになって自宅のある街から数100キロも離れた民家の焼け跡から見つけられた彼女。
誰がどう見ても幸せで羨まれるほどの境遇の彼女に一体何があったのか?冒頭に彼女が街の祭りののど自慢大会でその歌唱を披露するシーンから物語に否応なしに引き込まれていきました。
その背後にかつて同じように一般女性を殺しながら逮捕されても沈黙を貫くことで無罪を勝ち取った元警察官を父親にもつモンスターのような男性の存在。そんな男と彼女の、想定を超える接点。偶然というべきか必然というべきか彼女の事件は、さらなる殺人事件を呼び込みながら、物語が進むにつれてさまざまな謎がすっきりと明らかになっていきます。
しかし事件の謎が解けても消えないわだかまりがわたしの心には去来しました。歌手の夢を持ちながらその夢にあと一歩のところまで辿り着きながら挫折していくこの矛盾に満ちた切なく儚い状況・・・。
本作には個人的にデジャブ感があり、よくよく記憶をたどれば若い頃に読んだひとつの小説を思い出しました。石川達三作「青春の蹉跌」です。若者が持つ夢と陥りやすい欲望の罠という共通のテーマがこれらの作品には表現されているような感傷を抱いてしまいました。
若い頃この小説を読んだわたしは青春の夢、若さゆえの過ち、その挫折と苦悩の物語に出くわし、物語の主人公を自分と重ね合わせて、世の中の不条理に心震わせたことを思い出しました。
いずれにせよ本作はガリレオらしい、飄々としたガリレオのキャラクターと見事に対称をなす、切なく儚い人間ドラマに彩られている素敵な作品でした。
本音を漏らすと、第一作である「容疑者Xの献身」のラスト、アリバイトリックにより助けたはずの女性からの告白と謝罪を聞いた容疑者Xの慟哭。親友の想いを知りながらも彼のアリバイを崩し犯人にしてしまった哀しみと葛藤に包まれ苦しむガリレオの表情。そしてラストシーン、隅田川に深々と降りつもる雪の美しくも儚い情景といったこれぞ映画という独特のカタルシスの表現にまでは至っていないような気がするのですが、これはこれで本作は素晴らしい作品であり、また別の次元で懐かしい思いに包まれた作品になりました。次回のガリレオシリーズが今から楽しみです。
P.S.本作の事件のトリック。事件が最初に起こったとき実はまだ被害者は死んだように見えて死んでおらず、そのことがその後現場を訪れる第三者による犯罪とトリックの引き鉄になるという点は、第一作と共通する趣向であり、これは単なる偶然なのか、あえて同じ構造のトリックで再び挑んだのか、単に東野さんの手癖なのか・・この点でも思いが残る作品となりました。
2022年
9月
01日
木
本作を夏の終わりを感じさせる涼しい昼下がりに、T-Joy東広島にて鑑賞してきました。あの壮大な歴史絵巻キングダムの実写第二弾です。
今回は魏との蛇甘平原での戦いのなかで、成長していく信を描いています。何と言っても実写映画の醍醐味として第一に挙げられるのは、漫画(わたしはまだアニメは残念ながら観ていません)でイメージしていた戦場やお城の風景が実写で観れるわけで、なるほど実際の雰囲気としてこんな感じになるのかと感心しきりでした。これらの映像は、漫画を読むときにも適度なフィードバックとなり、さらに原作を再読するときの楽しみとなります。なのでこの先映画もしっかりフォローしていくことになりそうです。
実写映画においては、原作の登場人物を誰が演じて実写ならではのリアルな画像を通してキングダム世界を堪能させてくれるかが重要なのですが、どのキャラクターも最初は違和感を感じても観ているうちにだんだん慣れてくるという感じで、実写版もすっかり楽しませてもらいました。
例えば王騎などは最初小柄過ぎて違和感あったのですが、すっかり慣れて違和感なく楽しめていますし、今回のひょう公としての豊川悦司はあのごついイメージにひょう公とは、大丈夫かな~と思っていたのですが、スクリーンを通してみれば、意外ながら結構似合ってました。それでも呂不韋としての佐藤浩市は、始皇帝の父親かもしれない存在であり、大柄で身も心もビッグマンという印象の割には小柄過ぎの感があり、今作ではまだ違和感ありますが、だんだん慣れていくと思います。
それにしても、原作は現在60巻を数えており、今回の第2作でやっと原作の10巻近くというところであり、このペースの映画化で原作を追っていくと、「キングダム12」となりそうです。それどころか、原作自体が秦による中華統一まで今までどおり丁寧に詳細に描かれるとしたら、軽く100巻越えになるはずで、映画にすると「キングダム20」ぐらいは軽くいきそうです。かつて映画の続き物で20作品以上も続く作品があったでしょうか?このままいけば途方もない長い道になりそうですが、ぜひそれを達成してほしいものです。
そのためにもとくに原作の原泰久先生におかれましてはしっかり健康に留意して「キングダム」の世界をこのまま詳細にエンタテインメントを交えながら描ききってほしいものです。
もちろんわたしもしっかりついていく所存ですが、よく考えてみれば他にもいろいろフォローすべき世界が、漫画にも小説にも音楽にも映画にもスポーツにも、もちろん医学の世界にも大量にありすぎて「実は時間に猶予はない」ことを本作の雄大さと悠久の時を描いた世界を通してあらためて痛感せざるを得ず、日々精進していく決意を新たにさせてもらいました。
原作においても映画においても大作の「キングダム」ですが、この先の壮大なる展開を楽しみにわたしも日々の営みに誠心誠意励んでいく所存です。
2022年
8月
14日
日
本作を夏の暑い日の昼下がりにT-Joy東広島にて鑑賞してきました。いつも映画はひとりで観ることが多いのですが、人気作品でもあり珍しく複数で、しかも日曜日の鑑賞となったことで、字幕版も吹き替え版も満員御礼のため、比較的空いていた3D版での修行となりました。
ジュラシックパークからワールドへと続く大きな流れの最期の作品ということで、否が応でも期待に胸を膨らませての鑑賞です。
あっという間に楽しい時間は過ぎ去りました。映画としては、ラプトル、チラノザウルスなど強く素早い恐竜が画面いっぱいにスピード感満点の大活躍で人間をまったく凌駕する活躍で、襲われる人間の恐怖や不安は途方もなく恐竜アクション映画としては文句なしの作品となっていました。
しかし一方で、最終回としての物語自体としては、これで終わりで本当にいいのだろうか?・・・なんて思ったりもしました。確かにジュラシックパークおよびワールドの両作品を越えて迎合を果たしたレジェンド登場人物たちが互いに協力して、恐竜を利用して世界の支配をたくらむ悪の組織「バイオシン」を倒し首領を殺し、恐竜を開放するという勧善懲悪作品となっていましたが、それはそれで恐竜を悪用する秘密組織の本部のなかで、巡り合ったレジェンドたちが七転八倒してなんとかその襲撃をかわし、悪の首領を倒し、ついに恐竜を開放するというのもありなのかもしれません。
それでもおそらく多くのジュラシック世界のファンや観客の方々は、「現代に甦った恐竜とエンタテインメントのために神の領域に手を出てしまった人間が本当にこの地球で恐竜と共生できるのだろうか?」という壮大なテーマの終焉を観に行ったのではないか・・・?と思ったりするのです。
そのためには悪の組織は要りませんし、世界を混沌に陥れる大型バッタ繁殖作戦なども無用であり、例えば、なんの落ち度もない無辜の市民の住むロサンゼルスやニューヨーク辺り、つまりアメリカを代表する都市に恐竜たちが侵攻し、彼らの残虐で血も涙もない無制限の大暴れにより崩壊していく人間世界を描き出し、それでも犯した罪の大きさに悩み、圧倒的な恐怖や恐竜が迫りくる不安に襲われながら、大災害に抗い続ける人間たちの知恵や立ち上がった市民たちの活躍を得て格闘奮戦しながら、その末に訪れる黙示録的世界・・・。 神の領域、いわばバベルの塔建築に手を出した人間たちに降りる鉄槌、それに抗う弱く愚かな人間たちのレジスタンス・・・なーんていう、恐竜との対峙をフィルターにて人間の業を表現するなよう壮大かつ哲学的な物語を観たかったのはわたしだけでしょうか?
もちろん上記は個人的妄想に近い期待であり、ほんの期待の欠片の一片であり、本作を体験した観客のみなさんにはおそらく百科百様の期待やイメージがあり、本作にはそんな期待に応える素晴らしい材料が有り余るほど満ちていたのにそれらをほとんど使わずに終幕を迎えたようにわたしには思われてしまい少し残念感が残ってしまいました。
加えて、チラノザウルスやラプトルをはじめとした攻撃的恐竜も魅力なのですが、ジュラシックパーク時代に観られた水辺に遊ぶプラキオザウルスやブロントザウルスのような巨大ながら気の優しい草食恐竜がほとんど見られなくなったのも少し残念でした。
まあそうは言っても、本作は恐竜が甦ったらという夢のような発想を基に恐竜が現代に大活躍する世界を精緻かつ迫力満点の素晴らしい映像で我々に示し続けてくれた本作は偉大であり、この間、全世界の子どもたちはもちろん、かつて子どもであった大人たちにも多くの夢とイメージを見せ続けてくれたことは間違いなく、やはり感謝の気持ちしかありません。
難しいことでしょうが、せめて泣きのもう一作の追加制作により、気持ちがストンと落ちる最終回を観てみたいものですが、こうしていろいろと思いを巡らし夢想できてしまうこと自体が偉大な作品の証しなわけであり、素晴らしい時間と夢を与えてもらった作品となりました。
2022年
7月
14日
木
本作を遅ればせながら、もう夏が訪れる季節になり、ようやくT-Joy東広島にて体験してきました。前作からはや35年がたち、主演のトムクルーズも同じ年をとっているはずであり、前作のような華麗なスカイアクションができるかどうかが注目の本作になりました。
前作「トップガン」については言うまでもないかもしれませんが、未鑑賞の若い方のためにあえて綴ると、まだソ連とアメリカとの冷戦時代のさなか、アメリカ海軍のエリート飛行隊をモデルにした作品でした。
迫力ある飛行影像、壮麗でロックな劇中歌、アメリカを背負うエリートの矜持、劇的で切ない恋、かけがえのない友人の死・・・等々80年代にアメリカができる戦闘エンタテインメントのエッセンスをすべて詰め込んだような作品であり、映画とともに音楽も大ヒットし、全世界で社会現象にもなった作品であり、もしやソビエト連邦の崩壊を早めたのではないか?・・と妄想さえしてしまう伝説の名作であり、その続編となると、こけるわけにはいかないので、トムクルーズ自身が映画続編の権利を買い取り、満を持して制作に入ったといういわくつきの作品です。
また個人的には小学高学年から中学時代にかけてジェット戦闘機のプラモデル制作にはまった経験があり、プラ塗装のために狭い部屋にてラッカーやシンナー塗れになり、アメリカ空軍のファントム艦載機、スカイホーク、F14、F15、F16、英国の誇る垂直離着陸機ホーカー・シドレーハリアー(この機体はとくに個人的愛着がありました)、ソ連のミグ25なども制作していたのです。当時子供心にも戦闘機の空を滑空するための無駄のない形状、それゆえの比類のない美しさに魅せられていたものでした。
もちろん戦闘機は戦争に使われることも多々あり、今となっては不謹慎の誹りを免れないのですが、当時の子供心としては戦争に対する反発もさることながら、機体そのものの造形の美しさへの興味と憧れが上回っていたような気がします。
前作はそれらがまさに現役の時代であり、画面いっぱいに大活躍するのですからわくわくドキドキの作品であり、今回の続編は少しそんな過去のイノセントな少年時代の郷愁を誘うものもあります。
続編の本作はもうソ連はないものの、いまだロシアをはじめとした戦争により領土を広げようとする国は存在しており、コロナ禍で2020年に完成していたものの、2年待ったらしいですが、その間、ロシアによるウクライナ侵攻が現実のものとなり、ある意味絶妙のタイミングでの公開となりました。
この続編は、トム自ら企画しただけあって、映像は前作より進化しており、実際の飛行シーンは大迫力でした。音楽については前作の主題歌が素晴らしかったので、今回はそれには届かないものの、作品全体に寄り添い、いい感じでムードを盛り上げていました。物語としても、前作の続編という形で、喪った親友の息子との交流が印象的です。最初は敵対と反目から激しい訓練や困難なミッションを通して理解と信頼へ拡がっていく様がドラマティックに表現されていました。
そして主人公のマーベリックのお約束の恋もつまみに添えて、物語は順調に終局に向かい現代の飛行機乗り達のミッションはとりあえず一段落に向かいます。
やや気になったのは、今作の劇中の飛行機は最新鋭のものでなく、あえて旧式のF18(いろいろ事情があり、最新鋭機での撮影は難しかったとのことですが)でした。しかしあえて旧式の戦闘機で、敵の最新鋭機を倒すというのもヒーロー物語としては十分にはまっており、結果オーライとも考えられました。
それでも前作の主力機F14トムキャットは大きな可変翼を持つ人を包み込むような大きくて優美な機体であり、それが物語をさらに美しくかたどっていた記憶もあります。その点、F18ホーネットはもちろん悪くはないのですが、F14よりはやや小型でありお世辞にも優美とは言い難い機体であり、飛行機好きには評価が分かれるところではあります。(ちなみに同時代のF15Aイーグルも抜群の美しさでしたね)
もし気になる方は前作での飛行シーンを鑑賞して機種の違いを味わってみることをおすすめします。
映画のラスト、お約束のラストシーン、夕陽を浴びてのバイクでのノーヘル・恋人を乗せたタンデム走行は前作同様格別にいかしており、かつてバイク乗りであったわたしも一度はしたいもののいまだ実現していないシチュエーションであり、惚れ惚れします。
結局、飛行機の恰好良さはやや衰えたものの、トムクルーズの格好良さは35年の時を経ても衰えることなく永遠なのだということを再認識しての帰路となりました。いずれにせよ素晴らしいエンタテインメント作品でした。そして現実には世界ではまだ戦争をしている地域があり、我が国だって隣の半島や南の島の問題をきっかけにいつ戦禍に巻き込まれるかわかったものではありません。そんな切ない微妙な時代をわたしたちはなんとか不安を抱きながら生き抜いているのですが、いつの日にか「国と国が戦っていた愚かな時代があったんだよ」などと笑って話せる時代がいつの日か来ることを祈願して筆を置こうと思います。
2022年
6月
10日
金
梅雨が近づきつつある夜の帳のなか、本作をわが街の映画館T-Joy東広島にて鑑賞してきました。
ただし今回のブログはシン・エヴァンゲリオンの回と同様狭く深い話になってしまっており、ウルトラマンを当時のテレビ放映で経験していない方にとっては、まったく何のことを話しているのだろう?という内容になっており、スルーしてやってください。いずれにせよ幼い頃にウルトラマンや仮面ライダーといったヒーロー物語の洗礼を受けた世代のひとりの戯れ言です。
言わずと知れた庵野秀明監督プロデュース(本作では監督はしていません)による、シン・ゴジラ、シン・エヴァンゲリオンに続く「シン」シリーズ3作目。シン・ゴジラでは、ゴジラが主役であるものの、それに対抗する自衛隊や政府のシステムを独特の音響を交えながら、科学的考証を基にかなりリアルに活写されており、観ていて「そう来たか~」としびれるほどの作品になっていました。さらに庵野監督自身、漫画「アオイホノオ」(庵野監督の大阪芸大時代に同級生だった漫画家島本和彦さんが当時をリアルに振り返る青春漫画グラフィティ)によると、リアルタイムでかなりのウルトラマンフリークであり、大学時代の自作フィルムでも自らウルトラマン役を演じていたというエピソードも載っていることから、かなりのマニアであることは容易に推測ができ、本作にも自然に期待のボルテージが上がっての修行と相成りました。
無事観終わってこの文章を綴っているわけですが、さすがの作品となっていました。
庵野監督らしく「禍威獣(カイジュウ)」や「禍特対(カトクタイ)」などの漢字の造語にも凝っており、もし現代にウルトラマンが登場したなら・・という仮定を基に科学的考証を駆使してぎりぎり矛盾のないウルトラ世界を表現していました。
また映画のなかでのウルトラマン初登場シーンやゼットンの宇宙空間での待機シーンなどは、まるでエヴァンゲリオンでかつて観たシーンと完全に相似となっているので、そのデジャブ感に思わずニヤリと口元が緩んでしまいました。
ウルトラマン登場からメフィラス星人の来訪を経て、ゼットンとの最終決戦に至るウルトラマン世界をたったの2時間で表現したのですから、すごい力技です。
とくにメフィラス星人に関しては、ウルトラセブンで登場するメトロン星人のセンス(さすがにちゃぶ台返しは登場しませんでしたが)が加味されており、メフィラスを演じた山本耕史さんが「人間に扮する宇宙人キャラ」として最適化し表情にしても演技にしもはまりまくっており「ウルトラマン、ここは割り勘でいいよな」という居酒屋でのセリフなどは、日常と諧謔が入り混じるウルトラマンワールドの本質を見事なまでに表現していたように思われました。
ゼットンエピソードについては、意表をついてなんと仲間のはずのゾフィーが最大の敵ゼットンを連れてくるというアクロバティックな発想でしたが、結局ウルトラマン自身が地球人への友情の表現として自己犠牲的に命を投げ出す(まるで仏教に通じる利他のこころ)という原作に帰結する方向でしっかり収束しており、これも観る者を絶妙の間合いでぎりぎり納得させる展開に落ち着かせており、さすがだな~と感心しきりでした。
しかしこの終わり方だと、「シン・ウルトラセブン」につなげるには難しすぎ、続きはさすがにないかな~と思ってしまいました。個人的に、ウルトラマンは小学校に上がる前の放映であり、なんとなく観ていたような感覚はあるものの、ほぼ再放送という追体験でなんとか理解した世代であり、ウルトラセブンについては小学校低学年でなんとかリアルタイムでハラハラドキドキした世代(まあそれでもセブンの深淵かつ不条理のあまり涙が出るような悲しき世界を子どもとして当時はまったく理解していなかったのですが)なので、いつか「シン・ウルトラセブン」も観たいと思ったりもしました。
本作で惜しむらくは、例によってかなりの情報や蘊蓄を2時間にぎゅーっと凝縮しており、おそらくさまざまなしがらみがあり仕方がないのでしょうが、「シン・エヴァ」のように思い切って3時間作品ぐらいに拡大して、もっとさまざまな素敵なエピソード(ジャミラとかシーボーズとかいいですよね)を庵野監督の表現で観たいと痛切に思いました。
まあいずれにせよ、今回も豊富な情報や蘊蓄を一回では味わいきれないので、また何回も映画館へ修行に行かなければならない羽目になりそうです。それもまた楽しみのひとつではあり、そんな素敵な作品をいつもありがとうございます。
庵野監督、いよいよ次の「シン・仮面ライダー」も期待しています。さらに「シン・ガッチャマン」「シン・キカイダー」「シン・マジンガーZ]「シン・ゲッターロボ」「シン・イナズマン」なども妄想しながら待っています(笑)。
2022年
5月
20日
金
本作を春の終わりの夜更けにT-Joy東広島にて鑑賞してきました。
この世の中の人間の狂気、凶悪さを映像で表現させたら、おそらく現在日本一であろう白石和彌監督の最新作です。
いやはや本作においても残酷で狂気に溢れた世界がこれでもかというほど開示されておりましたが、白石監督もメジャーになってきており、残酷無比な実際の主人公による子供たちへの虐殺拷問という残虐シーンを冷酷にありのまま表現することはかなり抑制されており、こんな怖い人物が現実にいるかもしれないというあくまで観る者の想像力を刺激する形での表現であり、映像としては少しずつマイルドになってきているのかな?と少し安心?しての修行となりました。
こころの医者として本作を観て感じたのは、阿部サダヲ演ずる犯人の心性です。幼いころから、乳児院に入れられ、そこで虐待されるような生い立ちを経て、育っていくなかで、どうしようもなく肥大化してしまった「他者への操作性」のことです。この操作性の究極の形が誘拐、殺害という形となるのでしょうが、それらの凶悪さが画面いっぱいに繰り広げられるのですが、日常の診療でも人が抱える大きなストレス要因の主な原因は対人関係であり、その関係のなかでも他者をどうしても操ろうとする操作性が大きな問題となることがよくあるのです。
この他者への操作性という欲望から人は離れて、自分の仕事と他者の仕事を区別し、人の仕事には立ち入らずに生きていくということが対人ストレスを貯めない重要な方策のひとつなのですが、本作の主人公は他者への操作性に執着し、その終わりなき救われない営みにより、人に自らの価値や存在感を他者に知らしめることでしか自己の存在の実感を得られないという無限ループに陥っており、ラストシーンでそのことを監督はダメを押すように告げており、最後にがつーんと頭を殴られる、白石監督らしいひとひねりのある作品でした。作品全体としては、本主人公が人生を原因論的に捉えすぎているような印象を受けましたが、人生の不条理が画面いっぱいに大きく展開されていました。
結局、マイルドどころか、深いところでさらに白石監督の作品世界はますます凶悪で先鋭的になっているのかもしれません。さあ白石監督、次はどう来るかな~なんて考えながら、夏が近づきつつある春の終わりの気配漂うなか、夜の街を駆け抜け帰宅の途に就きました。
2022年
4月
20日
水
遅まきながら、アカデミー賞外国作品ならびに脚本賞を受賞した本作をT-Joy東広島にて鑑賞してきました。さすがにもう一日一回上映となっており、いつ上映終了になるかわからない不安ななかでなんとか間に合いました。
以前のブログで書いたように、わたしは大の村上春樹好きであり、初期三部作の頃からもう30年以上もの間、発表された全作品を購入し読んでいる身であり、本作も映画館で見ないわけにはいかないという作品でありました。
何と言っても本作は3時間の長尺であり、仕事のある平日の鑑賞はなかなか難しく休日しか選択がないわけなのですが、休日もいろいろとやるべきことが入ったりしていたのです。本作を通して日々の生活のなかで3時間を確保することが意外に難しいことを痛感しました。
しかし観終わってまず思ったことは3時間があっという間でまったく長く感じなかったということです。しかもおそらく終映間近にもかかわらず、映画館には若い方から年配の方まで幅広く多くの観客が詰めかけ、平日の昼間というのに8割もの席が埋まっていたことにうれしい驚きにこころが包まれました。
さて作品ですが、何と言ってもまず最初の興味は、原作は「女のいない男たち」という短編連作集のなかのたった60ページ足らずの小品であり、それをどうやって3時間もある長尺の映画に拡大し表現できたのだろうかというものでしたが、上映が始まりすぐにその謎は解明されました。
本作は、連作集のなかにある「シェラザード」や「木野」からの引用、いやいやそれだけでなく、村上春樹作品全作からの引用やオマージュに満ち溢れていました。つまり濱口監督は、村上ワールドを壊さない程度に自身の想像力の翼で物語を改変&脚色し、原作から近からず遠からずという具合に、脚本や物語の構成を大胆に創作したのだということが、映画前半のなかの、主人公の妻である家福音による「空き巣する女子高生の話」をベッドのなかで物語るシーンからだけでもすぐに判明しました。
妻の浮気を知りながら知らぬふりをしそのこころの暗闇を最後まで知らされずに妻を喪った中年男の家福。母親からほぼ虐待と言えるような育てられ方のなかで、それ故に自動車の運転が巧みになり、事故をきっかけに故郷と母親を捨てて広島に流れてきた23歳(家福夫妻の亡くなった娘さんが生きていれば23歳という設定)のみさき。
ふたりの魂がSAAB900という北欧生まれの車をドライブするという行為を通して交流し、短くて長い時の旅を経て喪われたものに対する理解と共鳴を得ていきます。それだけで十分素晴らしい物語となっているのですが、一方の主人公のみさきはさらなる旅に出て行き着いた先は・・・という作品でした。原作はあくまでも家福が主人公なのですが、映画ではふたりが主人公(ラストを重くとらえると、みさきの魂の浄化と飛翔の物語?)と言えそうな作品でした。
本作はすべての村上作品がそうであるように、その世界を感じた人それぞれのこころのなかで万華鏡のごとく様々な光の波紋を描くように、印象的なセリフ、間、光と影、情景、音(劇中に気づくと流れているベートーベンのリリシズム溢れるピアノの音色は特に印象的でした)が散りばめてあり、それらが物語全体をゆっくりと重くテーマを暗示しながらこころの底層を流れる和音となっています。このことが音と映像で表現する映画である本作の一番の魅力だと思われました。
百者百通りの語り口が作れる本作ですが、最後の最期、主人公(みさき)がラストに行き着いた場所は村上原作にはまったくなく、これは完全に濱口監督の創作であり、もっとも賛否が分かれるところだとは思います。
ここでないどこかを探し求めた結果、日本ではないもっと広く大きな大陸にたどり着いたと解釈してもいいし、劇中で触れた温かい魂を持つ人々の出身の地にたどり着いたという考えもあるし、家福との旅を通して心の中で再び迎合できた母親の故郷がもしやそこであり、母親の魂を追い求めた結果という考えもあってもいいし、観る者の裁量に任される部分だとは思います。
そんなこんなでいい映画は人のこころに共鳴し、人それぞれに異なるさまざまな素敵な響きを奏でるわけで、そういった点で本作は文句なしの傑作でありました。これまでの村上春樹原作の映画のなかでは最もその本質に近づいた作品と言っても過言ではないような気がします。もちろん現時点で・・・ですが。
あと広島県民として特筆すべきは、ほぼ50%はよく見慣れた広島の風景で撮影がなされたということです。わが街東広島市が誇るまだ若い劇場「くらら」で劇中劇「ワーニャ伯父さん」のシーンは撮影され、学生時代の下宿(千田町)から1キロほどの南西にある広島市中区の「吉島のゴミ処理センター」とその海岸公園、同じく500mほど北西にある平和公園の「広島国際会議場」、県民の浜での毎年の海水浴の際必ず渡る蒲刈の「安芸灘大橋」、その先にある大崎下島は御手洗地区の宿「閑月庵」、広島湾に浮かぶ流麗でネオンの夜景が美しい海田大橋やクレアラインなどの架橋群など挙げだしたらきりがないほどの広島盛りだくさんでこの点でも大満足と言えるものがありました。
最後に、村上春樹作品のなかには常に「死は常に生と隣り合わせであり、人と人は生きるための道具を使ってなんとか交わることはできるけれど、本当に理解しあうことは不可能であり、世界はそういった魂たちのやるせない哀しみに満ち溢れているのだ・・・」というテーマがあります。
本作のテーマはこの村上作品のテーマと同心円を描いており、なかなか大きいものがあり、これからもまたわたしの小さなこころをときどき占拠しそうな予感がもう今からしていますが、映画館で観れてよかったと思える作品になりました。
2022年
4月
08日
金
本年4月8日、桜が咲き誇る季節に四季のこころクリニックは無事9周年を迎えました。東広島やその周辺の身近な方々にお役に立てれるようにとの想いと決意の下2年の準備を経て、9年前の平成25年に開院した当クリニックですが、この間本当にいろいろありましたが、おおむね幸せで順風満帆な航路を辿らせていただいたように思います。
当初想定していたように、さまざまなストレスが満ち溢れている社会のなかで、こころが疲弊した方々が思いのほか多いと感じた9年間でした。
そうした方々の話を詳細に聞かせてもらったうえで、もしこころの病であれば、医療的介入としての精神療法(ストレスに対する捉え方の工夫や対人関係上の思考法の補助や生活上のアドバイスなど)や必要最低限度の薬物療法を施行してきました。
一方で、こころの病ではなく、さまざまなストレスの結果の必然的な反応であれば、診察した上でこころの病ではない旨を説明し、安易な薬物療法などの無為無駄な医療的介入はあえてせず、生活上のアドバイスに留めてきました。
もちろんそうきれいさっぱりと両者の区別が判明しないケースも多く、そうした際はその旨をお伝えしたうえで、薬物療法や精神療法を試行し、効果があれば果報であり、残念ながら効果がないようなら、それ以上の無理無駄な漫然たる医療的介入を避けるよう努めてきました。
そうした日々の営みのなかで、ここ最近感じるのは、結構、気持ちの沈みや抑うつ感、不安感、焦燥感が顕著に出ていて一見「うつ病」に見える方でも、実は単なるストレス反応性のうつ状態(これは病でなく、誰もが冴えない事件が降りかかったときに起こるこころの必然的な反応です)で、環境調整(会社がストレスであれば辞めてしまうのもそのひとつですが、そう簡単には辞めれないケースも多いです)やちょっとした対人関係の捉え方やものごとの考え方の方向性の転換などで、症状が霧消してしまうことがしばしばあることです。こうした方に安易に薬物療法を導入してしまうと、副作用ばかりで効果はひとつもなく、その結果、患者さん自身にも迷惑かけてしまうということになり、そうならないようにと初診の際は今も緊張と集中力を激しく要します。
要は、表面上は同じ症状が出ていても、こころや脳の病なのか、単なるストレス反応なのかを見極めることが常に重要であり、これが意外と難しく、わたしも日々の臨床のなかで、その見極めの精度を高めていくことを心掛けているのですが、その道は深くこれでもう完璧という手ごたえはなく、決まりきった公式というものもなく、五里霧中であり、今日も明日も日々真剣勝負が続きます。
人のこころは時代とともに遷り変り、時代は人を嘲笑うかのように、螺旋階段のように確実に進んでいくのですから、人のこころを診療するということの追求や探求に終わりはなく、これからもこの営みは必須であり、こころの医者を続ける限り永遠に続くわけであり、精進が日々必要となります。
しかしそうした人のこころを探求したかったからこそ、この道に進んだのであり、本望なことであり、悪戦苦闘を経て少しは人のこころの仕組みや動きを理解し解明できたことも積み重なりつつあります。そうして積み重ねた糧をクリニックを訪れてくれる方々と共有し、こころを成長させながら、地域や社会に根差し、自己を確立しつつ、ともに進めたらこんな幸せなことはありません。
さらにいつも笑顔で優しく思いやりのあるスタッフ(開院時のスターティングスタッフ5人のうち4人が今もクリニックでともに働けているのは望外の慶びです)に囲まれて毎日この営みをしていけることは本当にありがたいことです。
徒然に10年目を迎える心境を綴ってみましたが、クリニック10年目、これからの道も初心を忘れず、親切に誠実に明るく診療していく所存です。今後ともよろしくお願いいたします。
P.S. いつも節目の時期に心遣いをしてくださっている友にもこの場を借りてお礼を言わせてください。離れていても魂の友として今後も歩いていきましょう。
2022年
3月
08日
火
先日、わが街の映画館T-Joy東広島にて本作を観てきました。
テニス界のレジェンド、ヴィーナス&セリーナ・ウィリアムズ姉妹。そんな姉妹を子ども自分から厳しく育てテニス界におけるレジェンドに育て上げた父親である、リチャード・ウィリアムズ(ウィル・スミスが好演しています)の物語です。
テニスのまったくの素人であったリチャードが、娘らふたりにテニスの才能を感じ取った結果、仕事をなげうち、女王獲得まで周到で長大な計画(プラン)を練って、現実にふたりともテニス界の女王に君臨させていく物語の展開にはこれがフィクションではなく本当に起こった事実とは信じがたいという感慨も生まれてきます。
しかし本作は、姉妹が栄光をつかむところまで表現してくれると思いきや、物語としてはヴィーナスのプロ初戦を戦った時点で終了しており、初期の無名の成長時代を中心に描いています。なのでセリーナのプロでの活躍はまったくなしです。
これはあくまでもリチャードの物語というわけです。映画はそのリアルな映像と懐かしい当時の音楽を背景にしながら、リチャードの哲学を強く主張し続けます。それは「ものごとを極めたければ、心身両面での鍛錬が必須である」という哲学です。要は、スポーツだけ一生懸命ではだめで、勉学や心の鍛錬もしっかりやらなければだめだということです。現実に勉学を優先している余り、彼女らの強さを噂で聞いたテニス界からの強いプロデビュー要請を断り続け、ヴィーナスの初期は、公式試合にもほとんど出させなかったという方針は、実は本作で初めて知りました。
あれだけのパワーテニスで世界のテニス界を席巻したのですから、10代前半からは朝から晩までテニス漬けで鍛えてまくっていたのだろうと思っていたので、「本当に頂点を目指すには、肉体だけでなく、精神面も重要」ということをリチャードは実践し、それを徹底していたわけです。このエピソードで思い出したのは、わが日本が誇る故・野村克也監督です。彼も「野球を極めるには、肉体的な技術だけではなく、人間的成長がなければならない」と生前つねに語っていたことを思い出しました。
おそらくどんな世界においても超一流となるには、外面的な技術だけではなく、こころを中心にした内面世界の鍛錬が重要ということを本作には改めて教えられました。
なんだか当たり前のことなのかもしれませんが、世界のテニス界で大成功したウィリアムズ姉妹という事実を目の当たりにすると、説得力があり、自分に振り返ればまだまだの部分が多く、少し気が引き締まる作品になりました。
このように本作は、父親の頑固と賢明な方針の末にヴィーナスがやっとデビュー戦を戦ったというところで終了しています。テーマがテーマだけにそれもやむなしなのですが、それでも、姉妹がプロデビューしてからもおそらくさまざまなドラマがあったはずなので、本作は立志編として、続編で戦闘編、続々編で栄光編として、姉妹の成功への過程をまた観てみたいな~なんて思いながら、春が近づく火曜日の夜の闇のなか帰路に着きました。
2022年
2月
20日
日
本作を少しずつ春の足音が聞こえてきた晴れの日の午後、T-Joy東広島にて鑑賞してきました。
実は昨年12月からなぜかT-Joy東広島の月曜メンズデイが廃止され、水曜日がメンズ&レディースデイと統一されました。その結果、水曜日が都合の悪いため、映画修行の機会が減っており、ブログ更新の頻度が落ちており、申し訳ありません。
さて本作ですが、スパイダーマンであるピーターパーカーがその正体を悪意のあるメディアによってさらされた結果、沸き起こる奇想天外なアクション活劇になっています。頼れる魔術師にお願いし、すべての人の記憶を消そうとした結果、時空が歪み、別次元からの悪の来訪者を引き寄せてしまい、別次元(パラレルワールド)からやって来たふたりのピーターパーカーと協力しあいながら、邪悪なるものたちを打ち倒すという痛快ストーリーです。
とにかく豪快でリアルな映像と音像が迫力満点で、ザ・マーベル印という作品になっています。
本作を観ていて今更ながらに気づいたことは、アメリカ人にとってのスパイダーマンとは我々日本人にとっての仮面ライダー(あちらはクモ、ライダーはバッタ)であるということです。本家のスパイダーマンはゆっくりとした変身シーンはなくずいぶんと印象が異なるのですが、実は1号ライダーも最初は変身シーンはほぼなく、1号ライダー藤岡弘の撮影中のバイク事故により、急遽登場した2号ライダーの役不足によって苦し紛れに演じられたものでした。しかしその苦肉のゆっくりとカッコつけた変身シーンが当時の子どもら(もちろんわたしも含みます)に大うけし、結果世代を大きく超える偉大な作品(1号ライダー当時は正直物語世界は暗く陰鬱で不気味でマイナーな世界観で、2号の大ヒットがなかったら、こんなに永く続くことはなかったでしょう)となったわけですから、世の中なにが好転するか一寸先は闇とはよく言ったものです。
そんな我々が誇る仮面ライダーが庵野秀明監督によって、もうすぐ「シン・仮面ライダー」として蘇ります。本作はその前哨戦として本家アメリカの変身スターの迫力ある活躍を堪能することができましたが、やはり何と言っても、来るべき「シン仮面ライダー」の公開が今から楽しみです。まあその前にまず「シン・ウルトラマン」が控えていますので、そのころにはもうコロナ騒ぎなど遠い昔という気分で楽しい映画世界を堪能したいものです。
2022年
2月
01日
火
本作を雪が津々と降りつもる冬の寒い夜にT-Joy東広島にて鑑賞してきました。
話題の大ヒット原作漫画の劇場版です。といっても物語全体からすると前日譚となりますので、物語をまったく読んでいなくても観れますし、これから観始める最初のスタートコンテンツとしても活用できるよう設定されていますので、気楽にわたしも出かけてきました。
本作は、呪術や怨霊の戦いを縦軸としながら、横軸には学生時代の級友との深い友情の要素あり、幼き日の記憶、それに続く恋愛、愛情、果たそうとする約束の要素あり・・の痛快アニメ活劇となっていました。しかし同じ少年ジャンプから発生した「鬼滅の刃 無限列車編」にて横軸として表現された、正義の追求、自己犠牲の精神、世代の継承、親子の愛と契りとその実行・・・のような誰の胸にもグッとくる普遍性ほどには昇華されておらず、世代を超えてまでのメガヒットとまではいかないのかなとも思いましたが、それも呪術廻戦らしくていいのかもしれません。
また個人的には、本作の主人公と言える、内気で葛藤の強い優しい乙骨くんは性格も声も、まさにエヴァンゲリオンの主人公しんじそのものであり、エヴァンゲリストであるわたしとしては、そのニッチな部分に強く惹きつけられるものがありました。
実は正直に告白すると、漫画のほうは一応新刊が出るたびにチェックしているものの、どうも内容的に難解で、なんとか読んでいるものの理解に消化不良を起こしているような状態なので、本作鑑賞にも不安を感じながらの修行になったのですが、カラフルな色彩、登場人物のダイナミックなスピード感のある動き、劇場いっぱいに炸裂する迫力満点の効果音の助けもあり、かなりわかりやすく消化咀嚼できました。
残念ながら、アニメ版は経験していないのですが、本作を観て、漫画原作というコンテンツのみにこだわらず、アニメ版も経験することによって、原作の消化不良は解消することがわかったような気がします。
しかし、公私ともに勉強するべきこともいまだ多く、読破したい多くの本を常時抱えるわが身にとって、いまはまだアニメにまで手を広げるひまはなく、しばらくは原作のみとのお付き合いが続くことになりそうです。
2022年
1月
03日
月
明けましておめでとうございます。早いもので令和も4年になりました。
わたしは去年は帰省はコロナ禍のため叶わなかったのですが、今年はなんとか帰省でき、恒例の友人らとの正月会&初もうで、地元の温泉巡り、名古屋の巨大店舗巡りなどなどに楽しく勤しみながら、あっという間の時を過ごし、本日3日にはこちらへ戻ってきました。
いつも思うことですが、故郷は自分が子ども時間を最も多く過ごした土地であり、現在住む広島とは距離感が異なります。子どものときにずいぶん遠く感じていたお店や駅や学校などの施設が現在は自動車を使えばあっという間なのです。
例えば、最寄りの駅に行くにも子どもの頃は、いつも徒歩か自転車で行っていたので10分から20分はかかり(幼少時は30分?)ずいぶん遠く感じていたのですが、実はたったの800mの距離であり、この距離だと現在住む団地内の自宅からは団地の出口までも届かない距離なのです。子どもの頃は不便と感じていながら、実はずいぶんと便利な土地に住まわせてもらっていたことが今更ながらに感慨深く優しくこころをノックしたりすることが帰省の楽しみでもあります。
しかし今回の帰省は2年ぶりでもあり、行動スケジュールもタイトで、わがふるさとの街をゆっくり歩くことはかなわず、気になる残務もあり、いそぎ現在のふるさとである東広島への帰路に着きました。ふるさと徘徊はまた来年の楽しみにとっておくことにします。
さてこの2年世界を騒がせ続けてきたコロナ騒動。わたしの帰省自粛だけでなく、すべての人々の活動の制限が2年も続いています。しかしこれらもついにその収束が見えてきています。残念ながら、不安煽りのテレビなどメディアは伝えてくれませんが、すでにコロナの性質は変異のたびに「広く・弱く」に変化しており、あまり不安になりすぎることはない状況になりつつあります。
それらを受けて、もう感染者数ばかりに気を取られず、重症者は圧倒的に少なく、ほとんどの感染者が無症状か、微熱、のどの痛みなど軽度の症状で、まるで通常の風邪のようになっていることを鑑み、感染症2類指定(結核同様の扱い)から5類指定(季節性インフルエンザと同等扱い)におろしてもらえれば、普通に街中のかかりつけの医療機関(このまま2類指定だと、保健所の指示を待っての指定医療機関のみで治療に限られてしまい最悪の場合受診が遅れてしまいます)で診てもらうことができるようになります。
上記の移行を政府が中心となって実施してもらえば、元々の平和な日常がついに戻ってきます。そうしてそんな日々が訪れた後に、仲良しや仲間らが再び集まり心ゆくまで歓談し、お酒を飲んだり、マスクもつけず素の笑顔で気持ちを交わすこともできるようになります。そうした年に今年はぜひしたいですね。
もちろんわたし自身も仕事でもプライベートでも公私の両面において、誠実に親切に笑顔でいられるよう今年も積極的に精進する所存です。どうか今年もよろしくお願いいたします。
2021年
12月
05日
日
本作を冬のささやき声が聴こえてくる寒い12月の夜にT-Joy東広島にて鑑賞してきました。
実を言うと、わたしの映画鑑賞は作品を最初から決めて強い意志を持って観るということは半分ぐらいで、普段の映画鑑賞については仕事が一段落して映画館に駆け付けるとちょうどいいタイミングで映画上映が始まるという作品をとりあえず好き嫌い言わず観てみるという具合であり、本作はまさしくそうした流れで経験できた作品となりました。
そんななかに意外な掘出し物や傑作との巡り合いがあるということもしばしばあり、これが映画館での鑑賞の素晴らしさなのですが、本作はそうした当たり作品でした。
物語は不思議な設定で、SF的でありながらも現代を描いており、複雑に入り組んだ世界がスタイリッシュな映像とともに展開されていきます。世界が終わってしまえばいいといつも考えているふたり。不潔恐怖症の男性と視線恐怖症の女性。精神疾患であるPhobiaを有するふたりが仕組まれたように出会い、その危うさと純粋性に惹かれ恋に落ちていくと思いきや、その恋自体が実は頭に巣食う寄生虫の仕業であり、どこまでが彼ら自身の意思でどこまでが寄生虫の仕業かの境界線もない世界が広がり、物語は容赦なく転がり転がっていきます。
その過程で必死に恋しながら世界の破滅へ向かっていくふたり、ざらざらしたスタイリッシュな揺れる映像、場面に寄り添う存在感溢れる付随音楽、ふたりの口からこぼれるまるで詩集や哲学書から飛び出してきたような意味深で哲学的な言葉・・・。これらが複合的にまじりあい、観るものを圧倒します。これぞ映画の醍醐味であり、本作は映画的傑作であること間違いなしです。
わたしも本作に久々すっかりノックアウトされ、頭がぐるぐると気持ちよくかき回されました。
こうした作品が東広島のような地方の映画館で普通に上映される時代に感謝しつつ、寒い冬が忍び寄る夜の帳に滑り込み、よい映画を観た後に訪れる夢心地の世界にいざなわれ浅く短い眠りについた夜でした。
P.S. 本作を観て思い出した漫画があります。それは90年代の傑作「寄生獣」です。本作とはテーマが違いますが、人間のなかに入り人間の行動と思考を操りながら、人類との共生を図る寄生虫ならぬ寄生獣の物語です。映画化もされた作品でもありますが、寄生?作品としては甲乙つけがたしの傑作です。もし機会があれば是非とも味わってみてください。
2021年
11月
14日
日
冬の足音が聞こえてきつつある秋のきりりとした冷え込みの夜に、 わが地元である東広島の酒蔵を舞台とする本作を、T-Joy東広島にて鑑賞してきました。「恋のしずく」に続く、広島&お酒の物語であり、今回は全国に先駆けて広島県での先行上映とのことで東広島市民必見の作品です。
東広島市安芸津町出身で、軟水による吟醸酒の醸造を初めて成功させた明治時代の偉人、三浦仙三郎のお酒にかける愛と情熱の人生を基に、現代の酒蔵に携わる人々の日本酒への想いや家族をめぐる物語と重ね合わせた物語です。
地元安芸津港の鳥観図(わたしが大好きな桜の名所・正福寺山も見えていました)からの導入から安芸津の酒蔵のなかで父と娘の再会で終わるエンディングまで、西条酒祭りなどの光景も加えて目になじんだシーンが多く登場しており、東広島の方が観ればなんだか面映ゆい気分になること請け合いです。
地元東広島では知らぬもののいない精米会社の「サタケ」の創始者も登場します。また油谷監督も、脚本の仁瀬さんも広島の竹原市出身、三浦仙三郎の妻役も広島市出身の戸田菜穂さんであり、キャストや構成からして地元広島を古も今も支えている人々の想いが詰まった作品になっています。
そして今回のテーマは「恋のしずく」の日本酒の再発見に寄り添う恋心ではなく、お酒を中心にしてその想いや歴史を受け継いでいく人の魂や家族の絆となっており、より普遍的な物語となっています。仙三郎がいつも心がけた「百試千改」という戒めも、ついつい日常のなかで忘れがちな信念と行動、努力の尊さを思い出させてくれ、わたしも日常のなかで、そうした大切なものを見失わずに生きていかねば・・という想いにかられました。
本作は広島でまず先行上映となり、全国では来年以降順次上映ということだそうですが、素晴らしいテーマを内包している本作が広島だけでなく、日本全体に広がっていってくれればいいのに・・・と仮定法的願望を持ちながら、ほんわかした気持ちをお土産に映画館を後にしました。
2021年
11月
07日
日
本作を冬の気配も近づきっつある肌寒い夜に、T-Joy東広島にて鑑賞してきました。意味深なタイトルであり、いったい何が護られなかったのだろう?という探求心を持っての修行となりました。主演も大好きな阿部寛と佐藤健ですし、思わず気合も入ります。
観終わって、しっかり複数の答えを見つけることができたものの、うーん、そう来たか~という重い重い答えでした。
悲劇の東日本大震災の結果、多くの喪われてしまった命たち。自然による直接的なものもあれば、その後の人間の無作為によるものもあり、それらを受けて諦念と怨恨を伴いながら、それらが複合的に絡み合い物語が進んでいき、悲しい犯罪が恨みを持つものによって引き起こされます。そしてついに衝撃の告白が吐露されるラストシーンに結びつきます。この告白の内容を偶然の皮肉と捉えるか、必然的な運命の巡り合いと捉えるべきか、いやはやいろいろ考えさせられました。
東日本大震災による悲劇を基にした作品は数多制作されましたが、本作はフィクションであるものの、おそらくこれに近い話は現実に存在したであろうことは想像に難くなく、何気ない日常に感謝したくなる気持ちで、肌寒い秋の夜に車を滑らせ帰宅しました。
P.S.本作のラストのふたりのやりとりにこころが揺れガビーンと来た人におすすめ作品を。それはクリントイーストウッド監督の「チェンジリング」です。これは100年ほど前に実際にアメリカで起こった実話を基に作られた子ども失踪事件のなか我が子を探し続ける女性の映画ですが、切ない展開が続き、ラストに生き残った子どもからの告白が訪れます。この告白の内容に、当時まだ若かったわたしは映画館の椅子からずり落ちるほどのガビーンとくるショックに襲われ、その後エンドロールの間にこぼれ落ちていく涙が止まらなかった記憶が残る作品(わたしにとっては30作に一度ほどある現象です)です。クリントイーストウッドならではの傑作でもあり、事実に基づいた衝撃作と言えるので、本作のラスト以上にこころが揺れること請け合いです。未鑑賞の方は是非一度鑑賞をおすすめします。
2021年
10月
23日
土
本作をいよいよ寒さを感じ始めた秋の夜に、T-Joy東広島にて鑑賞してきました。幕末の激動の真っただ中にたった6年間存在して消滅していった新選組の副長土方歳三を中心に同じ郷里出身の近藤勇、沖田総司らの運命と生きざまを描いた司馬遼太郎原作の映画化作品です。
歴史好きを自認するわたしとしても見逃すわけにはいかない本作でしたが、大満足の作品となりました。「関ケ原」「日本のいちばん長い日」といった大作を成功させ、日本に関する歴史作品を撮らせたら日本一であろう原田真人監督。彼の表現する歴史観、映像美学も所々に覗くこともでき、歴史好きにはたまらない娯楽大作になっており、歴史に興味のある人もない人にも十分に楽しめる作品になっていると思われます。
原作に少しあった、男と男の友情を越えた男色的?世界はほぼ封印し、彼らの剣にかける情熱、漢気を美しく健気に表現している切り取り方もこれはこれでありだと思われました。その一方で、実際の土方歳三には、隊を守るためにでしょうが、非情なまでの残酷さがあったと推測され、その辺は今回はまあなしで行こうという印象を受けました。
これからも新選組をモチーフにした幕末ものは数多く撮られるのでしょうが、どの監督も意識せざるを得ない標準器といえる作品に本作はなったような気がします。本作をコロナの流行るこうした時期にリアルに鑑賞できたことはおそらくこの先強い記憶となって残っていくという印象を持ちました。
2021年
10月
11日
月
本作を深まる秋の夜更けに、T-Joy東広島にて体験してきました。ここ最近「新聞記者」「ヤクザと家族」といった話題作、問題作を連発する映画会社スターサンズの新作であり、期待は否が応でも高まっての鑑賞となりました。
ひとりのおとなしく自己表現の苦手な内向的な少女のスーパーでのマニキュアの万引き。犯行を見つけた店長。思わず逃げた彼女。執念深く追いかけたその結果彼女の交通事故死。それまで娘に対する理解のなかった父親の憤慨。そこからさまざまな関係者への攻撃。崩れていく人々の運命。その過程で見えてくる真実。それを認識した父親の行動変容。何もかも失った果ての感動の和解。
上記の言葉を読んでなんのこっちゃいな・・という感想を持たれると思うのですが、上記の文章展開を映画という媒体にて、映像と音楽をつけて表現するとなんと饒舌な物語に変容するのだろうという感慨を受け、映画という表現手段の可能性の奥深さを思い知らされます。
特に古田新太さんの狂気に満ちた父親役は刮目するほど素晴らしく、現実にはあり得ないほど理不尽な存在なのに、実際こんな人いそう・・と思わざるを得ない説得力のある演技です。古田さんのこの迫真の演技を味わうだけでも映画館に足を運んだ甲斐ありの作品でした。
いろいろ語りましたが、本筋のテーマにとどまらず、狂気の父親や気弱な店長(松坂桃李くんが右往左往しながらいい味出てます)を取り巻く人々ら(若い店長のことを心配しひそかに愛している寺島しのぶさん演ずる中年女性店員さんも存在感抜群です)にも独特の陰影と深みが感じられてさすがの作品になっています。さまざまな人間のサガや闇を照らし出す作品を作り続けるスターサンズの今後の作品に期待です。
2021年
10月
04日
月
本作を秋の深まりつつある夜に、ちょうど時間的にタイミングが一致したので、T-Joy東広島にて鑑賞してきました。
藤原竜也さん演じる、元直木賞作家の津田。彼はその栄誉に似合わず、地方都市・富山に住み、裏業界の運転手に勤しんでいる。そんな彼がひょんなことから1000万円を手にし、使ってみたら偽札だったことから、街の闇のドンと関わっていくという現実の話を虚構であるはずの自らの新作の小説の世界として描き、そのことに気づいた編集者が虚構と現実を行き来する物語に巻きこまれていくという複雑なストーリです。
藤原くんや豊川悦司さん、風間俊介といったなんでもござれという怪優たちが演ずる不思議な街での不思議な物語。こんな物語がいまも日本の各地で繰り広げられていると考えるだけで、こころが少しわくわくしてしまいました。
日常と非日常の間に潜む闇と光と人間のおかしさ。そんなものが上品にスクリーンに力むことなく淡々と密やかに表現されており、これははまる人には思い切りはまる作品という感じで、ちょうど「アヒルと鴨のコインロッカー」のような作品が好きな人には強くおすすめしたい本作でした。
わたしも日常に潜む世界に想像を巡らせながら、やさしい月の照らす秋の夜に滑り込むように帰宅の途に就きました。
2021年
9月
22日
水
本作を秋の夜長にT-Joy東広島にて修行してきました。前作に引き続き、広島市と呉市を主な舞台としており、地元を舞台とした作品なので当然観ないわけにはいかない作品です。
観終わり、いやはや映像、音声、ストーリー展開の豪快さに圧倒されました。しかしなぜかほっとするラストに一安心。映像の迫力、画面いっぱいに広がる暴力、アクションのスピード感、人を人とは思わぬような突き抜けた倫理観、さまざまな人が背後に抱える事情の複雑さ。それらが大画面いっぱいに花火のように炸裂し、痛快エンタテインメントになっていました。
ただし前作もそうだったのですが、冒頭に生理的にかなりきつい残酷悪烈シーンが繰り広げられており、この先一体どんなことになってしまうのか?という心配に陥ります。しかし意外にその後の展開はそれほど悲惨な残酷場面は出てこず、この冒頭の強烈シーンさえ乗り切れば後はなんとかいけるのですが、とくに女性にとってはなかなかの関門ではないでしょうか?
映画の展開としては、地元だけに、よく知り慣れた場所(とくにあの基町アパートが印象深く使われていましたね)もたくさん出てきてわくわくハラハラの2時間でした。最後に英国のスパイ映画のように、「なんとこの人がスパイだったのか?!・・・」というオチも素晴らしく、そのスパイの成れの果てもさらりと映していますが、聴衆納得の結果になっており、本筋の展開もあわせてかなりのカタルシスが得られること請け合いであり、ここまで暴力と破壊を赤裸々に真っすぐに表現できるとは、さすがの白石監督印の作品になっていました。
P.S.本作は主演の松坂桃李くんも素晴らしいのですが、なんと言っても敵役の鈴木亮平さんの演技が活かしています。悪もここまで突き抜けると清々しさまで感じさせるほど生きのいい悪役ぶりでした。彼はテレビでも映画でも出演すれば常にその役になり切っており、彼の出ている作品はその演技を観るだけでも十分元が取れるという、映画鑑賞の素敵な指標になりつつあります。彼の次回出演作も楽しみです。
2021年
9月
08日
水
本作を9月を数日後に控えた夏の終わりの夜に、T-Joy東広島にて鑑賞してきました。松竹100周年の作品であり、日本映画の重鎮であり、今年で御年90歳を迎える山田洋二監督作品である本作は映画好きであれば、避けては通れない作品であり、上映を楽しみにしていた作品でもあります。
若き日に自分の理想とする映画の製作を夢見ながら、ちょっとした不運が重なり、実現せず、田舎にこもっていた古き青年が、ひょんなことからもう一度若き日の情熱を思い出し、奇跡のような映画製作を目指していくという映画を中心にさまざまな夢を追ってきた人々の物語です。
山田監督の作品はいつもそうなのですが、日本の大衆文学の世界をそのまま映画に翻訳したような作風(小津安二郎監督ほどではないですが)であり、古き良き日本の空間と音をフィルムを通して送り届けてくれます。本作もそんな穏やかな風と人情がしっかり根付いていました。
それにしても、ゴウの晩年を演じた沢田研二さん。悪くはないのですが、これがもし志村けんさんだったら、さらにはまり役としてスルメイカのような味わいになったのでは・・と夢想してしまいました。
いずれにせよ映画館で体験できてよかったと思える作品であり、山田監督の次回作品がまた楽しみになりました。
2021年
8月
13日
金
世界で累計5000万部を売り上げている人気コミックの劇場版を8月のいつもとは違うお盆の期間に修行してきました。
「個性」を悪とし、それを滅ぼそうと画策する悪の集団に立ち向かうヒーローアカデミア出身のヒーローたちの画面いっぱいに広がる大活躍に圧倒されました。音と光の反射が迫力満点の作品で、映画館にいながらゲームセンターの喧噪のなかにいるような時間を過ごせました。
そんな迫力満点の映像と音像を持っている本作なので、映画館での実体験が一番のおすすめだと思います。
少年ジャンプ連載とのことで、相変わらずのジャンプのパワーをいまさらながらに感じ至りました。わたしも小学高学年から高校卒業ぐらいまではどっぷりジャンプ的ヒーロー世界にはまっております。わたしの頃は、ジャンプのヒーローと言えば、「リングにかけろ」「北斗の拳」「ジョジョの不思議な冒険」「スラムダンク」の主人公たちだったものですが、さすが友情努力勝利のジャンプは今も健在です。
タイトルにしても、真っすぐ直球で、「ヒーロー」そのものをタイトルに入れてきていることに、「ついにジャンプもここまで来てしまったか」という不思議な感慨が浮かんできまし
たが、自分の身を振り返るに、自分にしたって「思えば遠くに来てしまったものだな・・・」なんて考えながら、夜の帳のなかゆうるりそろりと家路へ着きました。
2021年
7月
29日
木
7月の暑い夏の夜に、待望の細田守監督の最新作である本作をT-Joy東広島ににて鑑賞してきました。
わたしにとってこころのなかで、細田監督は陽の細田、陰の新海と呼んでいる、アニメ2大新進気鋭の監督の飛車角のひとりであり、これまでも「時をかける少女」「サマーウォーズ」「おおかみこどもの雨と雪」「バケモノの子」など明るく痛快な作品に楽しませていただいてきました。
そして本作ですが、今回はいつもに比べれば、やや重いテーマ(いつもよく考えれば重いテーマではあるのですが)が横たわっている作品でした。仮想現実「U」のなかで全世界注目のそばかすの歌姫「BELL」。そこで出会う荒くれものの「竜」と出会い、お互いにシンクロする精神的外傷を抱えながら、現実世界での解決を成し遂げ自己の世界を改変している物語です。「サマーウォーズ」をさらに精神的に深く潜った作品になっています。
本作においてもさすが細田監督、いまを懸命に生きる主人公や仲間たちが本作でも画面狭しと動き回り、仮想世界のめくるめく大胆で美しい映像にはうっとりでした。当然ながら観ておくべき作品になっています。
しかし本作は家庭内における子どもへの虐待問題を扱っており、この問題はさらりと解決することが不自然なほど重い問題であり、いつも痛快な印象はやや薄かったです。個人的な好みとしては「サマーウォーズ」のほうがバランスのいい印象を持ったのはわたしだけでしょうか?
深読みすれば、それこそが細田監督の狙いであり、今後はただ痛快で大胆な作品という方向性からこころの暗い内面的世界を表現していくという方向転換の予告なのかもしれません。
いつかわたしのこころのなかでも「陽の細田監督」から「陰陽の細田監督」になっていきそうです。
2021年
7月
12日
月
本作をオリンピックの観客問題で揺れる梅雨明けしたばかりの7月の夜にT-Joy東広島にて鑑賞してきました。
本作は原作漫画が少年マガジンで連載され、累計発行部数1000万部を超えるという大ヒット漫画の映画化で、一言でいうとヤンキー&タイムリープものです。最近、この手のタイムスリップを利用したパラレルワールドの人生修正物語って多いような気がするのですが、時代の気風がそうさせるのでしょうか?
本作は物語がどうこうというよりは、ズバリさまざまな登場人物たちが少し怖いながらも純粋で痛快で魅力的で眩いばかりの光に溢れています。住む世界が違えど、久々モノホンの溢れるばかりの「つっぱり魂」(すみません。モノホンも含めて死語の連発です)のカッコよさを実感しました。
とくに敵役かつ最大の悪と思われていた東京卍會のマイキーとドラケンのコンビが光っています。決してどんなことがあっても道理を通し、後にひかない漢気と熱い友情が画面いっぱいに炸裂しており、すっかりおっさんになったわたしでさえもこころが震えました。
そして吉沢亮君(NHK大河の渋沢栄一と同一人物とは思えない役者ぶりです)演ずるマイキーは反則と言えるほど強くクールでかっこよく、軽々しい口調の裏に芯の強さが隠れているという、観てて惚れ惚れするような男前ぶりで、いやはやまいりました。男性のわたしでも惚れてしまいそうです。原作漫画でもさぞかし魅力的に描かれていることが容易に想像つき、機会があれば挑戦してみようという気持ちになりました。
以前に本ブログでもとりあげた「今日から俺は」や「やくざと家族」にも言えることなのですが、ヤクザおよびヤンキー映画には世界を愚直に真っすぐな視点でシンプルに描くことができる一筆書きのような風情があり、本作の筆さばきも痛快でさすが出色の面白さでした。
こんな真っすぐでかっこいい人物たちにはなれなかった自分のことはさておき、鑑賞後はこころにさわやかな風が一陣巻き起こり、輝くばかりの漢気と友情がいつまでも仄かにこころに灯り続ける作品になりました。
2021年
6月
24日
木
予告編が血だらけの死体が大画面に映し出され不気味であり、残酷な殺戮の天使が登場するようなストーリを想像させ、修行するかどうか迷っていた本作。それでも躊躇しながら、梅雨も後半に差し掛かったじめじめした夜にわが街の映画館T-Joy東広島にて鑑賞してきました。
怖そうな作品という一方で、いま役者として油が乗り切っている小栗旬、メキメキ実力をつけ成長著しい菅田将暉、そして映画初出演のsekai no owariのFukaseが共演するという魅力もあり、不安を感じながらも引き寄せられるように映画館へと足を運びました。
物語は菅田くん演じる、画力は一流であるものの、人の好さもあり性格的な弱さから、読者を引き込む強烈なキャラクターの登場する物語が作れない・・という山城。そんなアシスタント生活ばかりの彼が、ある日偶然に殺人事件の現場に遭遇し、犯人の顔を目撃したことを機に、その犯人をモデルに殺人鬼を主人公にした漫画を描いたところ、そのキャラクターが読者のこころを鷲づかみにし、ついに大ブレイクし人気作家、そして億万長者となり、長年心配をかけてきた恋人とも結婚し、超高層マンションのメゾネットに仕事場兼住居を構えるという生活を実現するものの、Fukase演じる本物の殺人鬼・両角がその漫画に気づき、漫画で描かれた残酷な殺人事件を再現しながら、山城に徐々に近づいてきて、最後に虚構と現実の一線を越えて、ついにコンタクトを果たした結果に待つものは・・・??というハラハラドキドキの痛快な物語でした。
このまま終わってしまうと、単なる恐怖サスペンスホラーものなのですが、なぜ両角のような殺人鬼が生まれたのか?・・のエピソードがしっかりラストにかけて挿入されており、最近流行りの伏線回収?もできており、圧倒的におもしろいながら、オチもしっかりつけているという力技の作品でした。心配していた殺人シーンの残酷さは、事件後の遺体という形でほぼすべてぼかされており、凄惨さよりも物語の面白さに目が行くようになっており、ここら辺は永井監督のうまさを感じました。
原作はあの「20世紀少年」「マスターキートン」「モンスター」を手掛けた長崎尚志さんであり、言われてみれば、視聴後のこころに繰り返す残響にはデ・ジャブ感があり、それはあの名作「モンスター」に近いものがありました。
おすすめの本作ですが、実は一番印象に残ったのは、山城が成功した後に、住んだ天井まで伸びる高い壁となっている本棚がそびえるモノトーンのスタイリッシュなアトリエです。これは、アートのように赤と黒と黄色の殺人現場の写真が世界の混沌を表現するように壁に貼ってある天井の低い両角の住処であるアパートときれいに対称となっており、永井監督の密やかな美学を感じました。
そして最後にセカオワのFukaseくんについて一言。わたしもその音楽については、名曲「ドラゴンナイト」のころからフォローさせてもらい、いつも楽しませてもらっています。そんな彼はかつては「映画には絶対に出ない」とインタビューで応えていましたものの、プロデューサーから粘り強く口説かれ、出演することになったそうですが、出る限りはとことんまでやりつくすという彼自身の音楽に対する姿勢と共通する美学を感じさせてくれ、いつかまた映画で再会したいと思わされる出来であり、才能はあるところには無尽蔵にあるものだ・・と妙に納得しながら、夜の闇の中帰路に着きました。
2021年
6月
03日
木
本作を紫陽花が色づき始めた梅雨空の夜に、T-Joy東広島にて鑑賞してきました。
本作は、在宅医療の6症例を中心に、いのちに関わる医療の在り方を描いた作品です。ある事件をきっかけに、大学病院救命救急科でのキャリアを捨てて、故郷の金沢に戻った女性医師が在宅医療専門の診療所「まほろば」(素敵な名前です)を引き継ぎ、悪戦苦闘しながら、患者さんらとの出会いと別れを繰り返す日常を通して、いのちとは?というテーマを照らし出してくる作品になっています。ほのぼのな展開と思いきや、物語の最期には、老いた肉親の安楽死という重いテーマが待ち構えており、本質的にはヘビーな作品でした。
しかし、わたし自身が惹かれたのは、金沢の古くも懐かしい街並です。なにげない川沿いの屋根付きのバス停や古い扉を開ける昭和の診療所の佇まい、狭い路地の末にある行きつけの食堂の風情などがこれでもかというぐらいに展開し、もうずいぶん埋もれてしまった過去のこころの領域に光を当てられるような感覚を覚え、幼き頃にまだ若かった母と小さな弟と家に帰るため夜のバス停で雨の中ずっとバスの光が訪れるのを待っていた時間の残照がこころの奥から甦ったりしました。
また往診患者さんが数人というささやかな地域の診療所を中心に、仕事が終われば夜は先代院長からの行きつけの食堂&バー「ステーション」で、マスターのモンゴル料理に舌鼓を打ちながら、お酒を嗜み、ときにはマスター(みなみらんぼうさんが演じています)自らの弾き語りを聞いたりする生活は、日々診療に追われ、たまの映画鑑賞やひとり読書などをささやかな楽しみとしている我が身からすれば、羨望の世界がそこに繰り広げられられていました。
そして、何といっても気になったのは、主人公が老いた父親と暮らす実家です。金沢の街を見下ろす高台の昔ながらの洋館。引き戸をあければ居間から雪の降りつもる金沢の街の様子や川の流れ、人々の行き交う通りを眼下に一望できるという格別なロケーションに存在する洋館。こんな素敵な家は金沢に実在するのか、完全に架空な建物なのか、とても気になりました。もし実在するのであれば、一度は訪れてみたいと思わせるぐらい素敵な家の風景でした。
本作のテーマとはまったく外れた部分にばかり興味をもってしまいましたが、なんやかんや言っても、白石先生のその後と温かな地域の診療所「まほろば」はこの先どうなってしまったのだろう?という気持ちがどうしても残ります。
おそらく野呂青年は晴れて医師国家試験を合格し、医者になり金沢の街に戻り、星野看護師とともに4代目院長として地域医療を担っていくという未来が理想なのでしょうが、野呂青年は大病院の御曹司でもあり、そう簡単にはことは運ばないような気もしますし、平和な診療所運営には山あり谷ありの道が待っているに違いなく、そんな未来ものぞいてみたくなる作品でした。
我が身を振り返れば、こんなロケーションもよく理想的な診療所で働くという状況ではないですが、親切で思いやりのあるスタッフとともにやさしく誠実な患者さんを迎えてささやかながらも温かく小さな診療所で日々働けているわけで、そのありがたさを噛み締めてまた日々の診療に戻ろうという想いを強くしながら、帰路に着きました。
2021年
5月
15日
土
本作を新緑の眩しい5月の夜にT-Joy東広島にて鑑賞してきました。本作はかなり静かで深い文芸的映画であり、通常広島市のサロンシネマ系でしか上映してもらえない作品タイプなのですが、本年度のアカデミー賞作品・監督賞・主演女優賞など主要3部門を獲得した影響で、わが街の映画館での短期間の上映がかないました。いまコロナ禍に騒がしいなかで、広島市内まで足を延ばすのは億劫なだけに、T-Joy東広島に感謝です。
毎年本ブログでもつぶやいているように、近年のアカデミー賞は、痛快エンタテインメントより、やや暗くしぶ~い社会批評もしくは文学的作品を好み、こうした作品群が大賞を受賞しており、本作も完全にこの流れと言えます。
本作は、アメリカにおいて、停年が近づき仕事を離れて、あえてノマド(放浪の民)となる高齢者たちを描いています。アメリカの現代社会のなかで着実に増えつつあるノマドランド。それはホームレスというより、ハウスレス。自らの意思で家を捨て、アメリカという大地を放浪しながら、バン(ワゴン車)で生活することを選択した高齢者たちのリアルな生活が活写されていました。
そして、これがなかなか含蓄のある味わい深い風情なのです。一定の場所にとらわれず、行きたい場所をめざし放浪しながら、定住生活者ともときに交流しながら、生活していくファー(主人公の女性です)。ときに定住しての共同生活を誘われながら、亡き夫への想いを秘めて、大地とともに暮らす女性が力強く描かれています。「さよなら」ではなく、「いつかまたこの路上で会おう」という言葉を交わしながら・・・。
こうした路上生活(まさにOn The Road)は言ってみれば、アメリカの歴史そのものであり、建国時の西部開拓者(Vanguard)に始まり、1940年代から50年代にかけて列車の屋根の上に乗り無賃旅をしたホーボー、60年代に自動車(motorcar)でアメリカンウェイを探し求めたビートジェネレーションなどもその系譜に繋がりますが、現在はノマドという生き方により伝承されているわけで、わたしも本作を観てあらためて、「アメリカは無理でもせめて日本のなかを放浪してみたい」との想いを喚起されました。
さらに本作においてはアメリカの素朴な大地、雄大で何とも言えない朱色に染まる夕焼け空などの風景がこれでもかというぐらい詩情豊かに表現され、ファーの営む質素かつ簡潔な生活との対称関係も素晴らしい文学的作品となっています。こうした世界は、個人的には完全にストライクゾーンであり、感涙作品なのですが、ほんの15年も前だったならば、知る人ぞ知るというニッチなマイナー作品であったような気がします。いずれにしても現代において本作がアカデミー賞作品賞はじめ主要3部門を獲得するという事態は、ここ数年来急速に進むアメリカ映画界のスモール化のなせるわざなのでは?なんてまたまた思ったりしました。
本作に刺激されて、いつかこんなノマドライフを送れたら・・なんて思ったりしますが、この生活様式を社会が許容するには、我が国土は狭すぎるきらいがあり、わたしの場合、将来できたとしても、せいぜい車中泊の温泉巡りという段に落ち着きそうです。そんな生活さえこれからずいぶん先のことであり、まだまだこの地で元気に働きつづける日々となりそうです。
P.S.もし本作の世界にはまり、アメリカの放浪・漂泊する魂たちに興味を持った人がおられたら、同じアメリカの2007年作品で、上映当時はまさに知る人ぞ知るという作品(なんとあのショーン・ペン監督作です)であった「イントゥ・ザ・ワイルド」をおすすめします。アメリカの名門大学を優秀な成績で卒業しながら、その直後に家族と連絡を絶ち、単身ひとひとりいないアラスカの深い森の中の生活に入っていった実在の若者を描いた映画ですが、アメリカ人の魂に流れる自然への共鳴、共生思想が本作と通底するように流れており、この作品を広島市内のサロンシネマで観た当時、名もなきアメリカ青年の魂にそっと触れたような感覚が訪れ、不覚にもわたしの目には一粒の涙がこぼれる傑作でした。おすすめですよ。
2021年
5月
05日
水
本作を静かなGWを迎える少し前にT-Joy東広島にて修行してきました。
もうわたしが何かを語る必要のないぐらい有名かつ人気シリーズです。実は子どものころ、コナンドイルによるシャーロックホームズシリーズや江戸川乱歩先生、横溝正史先生らの世界にどっぷり浸かり、人の怨念や執念の恐ろしさ、どうにもならないドロドロした世界の強烈さに少年時代に一発かまされ、その後の人生観においても大きな影響を受けてしまった推理探偵小説マニアのわたしにとっては、ドイルや乱歩先生らの原作そのもののほうが、いまだに物語の設定、あっと驚くような恐るべき展開、深い人々の怨念や含蓄や教訓という点において、名探偵コナンはこれら名作の足元にも及ばないのではないかという想いが実はあります。
しかし、そうは言っても本作名探偵コナンシリーズは知名度や人気においては、それら過去の遺産を完璧に凌駕しており、世界的人気を博していることは間違いのないことであり、ここまで世界の人に愛されていることには、ホームズ、乱歩、横溝ファンとして、多少の嫉妬を覚えて観てしまいますが、所詮これも中年おやじのひがみかもしれません。
いろいろな複雑な思いを抱えての鑑賞となりましたが、本作の楽しみな点は何といっても、毎回変わる舞台です(007やM.I.P.シリーズなどスパイ・探偵ものの定石です)。さらに今回は我が故郷名古屋を舞台としているとのことであり、素直に喜ばしく、名古屋のどんな風景を切り取ってくれるかな~という楽しみを持っての修行に入りました。
観終わって、アニメながらの明快さ、スピード感、ハラハラ感満点の相変わらずの素晴らしい出来でした。名古屋については、名古屋城と名古屋港周辺をとくに取り挙げてくれていました。
とくに地元では「名港トリトン」と呼ばれる、現在は新名神高速道路の一部分となっている三連橋がかなりリアルに表現されており、思わずニヤリとしてしまいました。
思えばわたしにも若き時代があり、その頃この橋は「名港西大橋(めいこうにしおおはし)」と呼ばれ単独の橋として存在していました。当時はまだ現在のような三連橋にもなっておらず、もちろん高速道路でもなく、飛島埠頭と金城埠頭を繋ぐ役割があるもののすぐ北には国道23号線(通称:名四国道)も走っているため実用的ではなく、なんのためにこんな橋を建設したのだろう??という感じのまるでオブジェのような橋(のちに新名神高速道路になることを知るのですが、当時はそんな計画があるとは露知らずまったく存在意義の感じられない不思議な巨大大橋だったのです)でした。その結果建設当時は、夜の帳のもと微かな光に集まる虫たちのように行き場をなくした若者たちのナイトドライブコースもしくはデートスポットとして地元では知る人ぞ知るポイントとして機能しており、夜の街で迷子になりがちだったわたしやその仲間たちなども橋上に車のエンジンを停めて、真夜中を越えて昇ってくる日の出を待ちながら朝を迎えたこともあるという、センチメンタルかつハートビートな世界を演出する謎に満ちた真っ赤に塗られた巨大橋でした。その橋に停めた車のフロントガラスから眼下に見える名港埠頭のやさしげなカクテルライトやコンテナキリンの群れをぼーっと眺めながら、付き合っていた女の子や親友らと、当時の熱い想いや好きだった音楽や文学、これからの進路や未来、人生論などを大いに語りあったりした経験(当時の若き名古屋人なら必ず一度はしてみた行為ではないでしょうか?)などもありました。まさに昼の喧噪から逃れて名古屋の夜にひっそりと棲息するDownTownBoys&Girlsたちにとっては、夜の闇の果てにたどり着く、青春のR&R Night大橋(by佐野元春)だったのです。
その橋が30年ほどたち、いまや名探偵コナンの舞台になり、それら思い出のつまった景色を背景にコナンくんが巨大な輝く銀幕のなか迫力満点にジェットボードを乗りこなしながら、目の前を暴れまわっているというだけでなぜかうれしく誇らしくワクワクしながら、青年期の記憶がオーバーラップし、映画上の物語と個人的体験の記憶が激しく錯綜し、映画館の暗闇のなか頭のなかがクラクラしてしまいました。いい歳してお恥ずかしい限りです。
結局、コナン少年に軽い嫉妬を覚えていながら、すっかりその作品世界に魅せられ、毎年本シリーズの映画体験をするたびに徐々にコナン世界のファンになっている自分を今回も認めてしまうコナン映画体験でした。来年も可愛く勇気や愛のあるコナンくんの大活躍に期待しています。
2021年
4月
20日
火
本作を4月も終わりに近づいた月曜の夜にT-Joy東広島にて鑑賞してきました。
あの傑作「罪の声」の原作者塩田さんが、大泉洋を最初からイメージしてあて書きした作品だそうです。ある斜陽出版社の雇われ雑誌編集者である主人公が、出版社の社長人事に絡み、変幻自在に出版社を翻弄しながら、最後に自分が翻弄していた部下に翻弄されるという奇想天外な編集ストーリーです。
塩田さんは作家になる以前、神戸新聞の記者だったということもあり、雑誌編集ものは故郷を描くようなものであり、軽快なテンポに続く、あっという間に豪快な展開、最後の落ちも素敵な佳作でした。
大泉洋さんもとぼけているようで、深い魂胆を秘めた主役がはまっており、安心して観れる作品でした。それにしても大泉さんの画面に溢れるユーモラスさ、人柄の良さはどの作品にも溢れていて、こういう友達を持ちたいと常々思います。
しかしよく考えてみれば、その雰囲気や温かみを持つ旧友がわたしには存在しており、コロナ禍でいまはなかなか会えないのが残念に思われる夜でした。
2021年
4月
15日
木
本作をGWもそろそろ近くなった4月の月曜の夜にT-Joy東広島にて修行してきました。
マイホームを探していた若い夫婦が、ふと立ち寄った不動産に陥れられ、同じ家が立ち並ぶ団地から出られなくなり、誰かもわからない子どもまで育てる運命からも逃れられず、心身ともに崩壊していくというシュールで怖い話です。
本作を観ると、人生やマイホームっていったい何だろう?という疑念がもちろん湧いてきますが、わたしなども団地に住んでいる身であり、本作の世界と本質的にはおおきく変わらない環境に身を置いていると想像してみると、背中が寒くなる想いがしました。
いずれにせよ、こうした前衛的作品が地元東広島で上映されることはありがたいことであり、T-Joy東広島には感謝したいと思いながら春霞の夜、帰路に着きました。
2021年
4月
08日
木
本年4月8日、四季のこころクリニックは無事8周年を迎えました。平成25年4月8日、お釈迦様の誕生日というありがたい日に産声を上げたクリニックも早いもので満8歳を迎えました。
この間、無事というべきか有事というべきか、兎にも角にもいろいろな出来事や経験を経て、クリニックやわたしを含めたスタッフも少しずつ成長しつつあるなかで、8周年を迎えたことは感慨深いです。
この間、スタッフには新しい命が3人も生まれたこともとてもめでたく、近々4人めが生まれることになりそうなことも大変に喜ばしいことです。(そのたびに産休代替のスタッフの募集になるのですが、今回もよい出会いのきっかけになると思います)家族が少しずつ広がっていくのを感じながら、日々の診察に勤しめる幸せを感じながら、スタッフや地域の皆さんとゆったりと歩んでいけたらと思います。
今回の写真は広島から東京へ向かう飛行機の窓からわたしが撮った雲上の富士山と箱根の山々です。伊豆大島上空辺りからの景色ですが、東京への研究出張のたびにこの富士山のような高い志でしっかりと勉強して、広島へ帰ろうといつも思っています。ただこの一年はコロナ禍もあり、まったく東京への研究出張もできておらず、勉強は常にWEB中心となっていますが、早くこのコロナ禍(マスコミのインフォデミックという要素も大きいですが)が去ってほしいものです。
そんなこんなで、四季のこころクリニックは、8周年を迎え、9年目に入りますが、元気の力が続く限り、地域の皆様にこころの医療という次元でお役に立てれるよう頑張っていく所存なので、今後ともよろしくお願いいたします。
P.S. 毎年のようにこの時期になると、開院記念日に合わせて、お祝いをしてくださっている方々にはこの場を借りてお礼を言わせてください。そしていつも気にかけてくださり、ありがとうございます。コロナ禍が治まった暁にはまた楽しいお酒でも飲ませてください。
2021年
4月
01日
木
申し訳ありません・・・。映画のコメントについては、普段はその映画を観たことのない方を想定して、なるだけディープな内容は避け、あっさりとその映画の良さに言及するよう心がけているのですが、今回のブログはわたしの25年間の積み重なった魂の欠片の暴発となってしまっています。なので、今まで一度もエヴァンゲリオンを観たことのない人にとっては、一体何のことを書いているのだろう???・・・ということになること必定なので、本稿は読み飛ばすか、無視してくださいね。それにしても四半世紀にわたったとはさすが新世紀(しはんせいき)エヴァンゲリオンと名付けられただけあります(笑)。
コロナのおかげで、一年近くも上映が遅れた本作をT-Joy東広島にてついに鑑賞してきました。思えば、本作の最初のアニメはまだ20世紀の1990年代でもあり、かれこれ25年の付き合いになります。わたしを含めてエヴァを追いかけてきた人たちもこの間等しく年を重ねたわけであり、今回の終幕は感慨深いものがあります。
実は1997年発表(いまからもう24年前です)の前回の劇場版「Air まごころを、君に」も当時としては発想(アーサー・C・クラークによるSFの金字塔的名作「地球幼年期の終わり」的センスをアニメで大々的に表現したことはいま思い出しても素晴らしい偉業です)は並はずれ、示唆に富んだ素晴らしい出来であり、悪くない結末であったものの、やはりあのアスカの「気持ちワルイ・・」という拒絶的終幕では庵野秀明監督も納得いかなかったのか、2007年から新劇場版が開始され、今年2021年(当初の予定ではキリの良い2020年でしたが)、本作はついにフィナーレを迎えました。
わたしもなんやかんや言って、まだ若いころからのいろいろと思い入れのある作品でもあり、語りだしたらきりがないのですが、観終わって思ったことは、この終わり方しかないのでは?というぐらい納得のいく素晴らしい結末でした。
本作の映像や音楽、物語の展開はすべてが強烈で鮮明であるのですが、やはり一番印象に残ったのは、永遠の子どもとして終わりそうだったシンジが、映画終幕間際で大人になり、庵野監督の故郷である宇部駅をガールフレンド(なんと相手は同じくエヴァの呪縛を脱し、成長を再開したマリ・・・彼女は元々はシンジの父親、碇ゲンドウと京大冬月教室での同窓と推測され、一世代降りてのシンジとの関わりであり、なかなか興味深い存在ですが、彼女への論考だけでひとつの長文ができてしまうので、本稿ではあえてスルーします)とともにまるで庵野監督の分身のように飛び出していくというラストです。
我々観るものにとっては否応なしにさまざまな想像(妄想?)を膨らませてしまいます。
今さら言うまでもないのかもしれませんが、本作は監督自身のこころの成長の物語であり、終幕に至り、ついに25年続いたエヴァからの旅立ちとなるのですが、監督自身、1997年の劇場版終幕において「もしや自分はシンジのように永遠の少年であり続け、大人にならずに、アスカのような厳しく現実と向き合っている女の子からは”気持ちワルイ”と罵倒されながらも、人生という河を少年のこころのまま孤高の存在として流れていくのかもしれない」という想いから、その後監督自身、日本全国を放浪したり、実写映画を撮ったり、俳優として他監督の作品に出演したりするなかで、「心身ともに大人への成長を遂げていく」という体験をした結果、本作が出来上がったのでは?という印象を抱きました。
ひとつの例として、エヴァは宇宙戦艦ヤマトや機動戦士ガンダムというSFアニメの系譜としては第三世代であり、メカニックアクションを中心にあくまでもSFという空想科学の範疇の物語であったわけですが、最終幕となる本作では、かつての級友(トウジやケンスケ、ヒカリら)との14年ぶりの再会とその後の共同生活が強くこころに残ります。
ニアーサードインパクト後の避難生活(この間現実世界で実際に起こった東北大震災後の避難地域を連想させます)のなかで苦難を乗り越え、現実と向き合いながらリアルに生活している中学時代の級友たちとのこの再会はシンジにもアスカにも大きなこころの再生と成長を促します。そんななかで、なんとレイはそこで赤ん坊を抱きかかえあやしたり、田んぼに入り田植えまでするという従来のSFとはかけ離れた現実的な生業も出てきます。こうした体験を通して彼らが徐々に再生していくという下りは,軽い驚きを最初は伴ったものの、エヴァの世界がSFというフィールドを越えて、実在の世界にもコミットしシンクロしていくという、視聴する我々にとっても感慨深い体験となりました。
シンジもアスカもレイも常に科学の最先端であるエヴァのパイロットとネルフでの無機質な生活(特にレイは究極でした)にスマートに取り囲まれていましたが、日本の田舎という有機的な生活にもまれるなかで、再生を果たしていく。さすが庵野監督と思わず唸りました。
監督は、この間に日本で起こった災害も含めたさまざまな事象や放浪経験(監督はエヴァのテレビ版制作を終えた直後、しばらくの間、まるで廃人のように国内放浪したそうです)を経て、地に足のついた大人という心性を持つに至り、このたび、こうしたリアルな土地に根差した生活のなかに、自ら生み出したキャラクターを投げ込み、自身の行動が引き起こした事態の大きさにショックのあまりほぼ失語症に陥っていたシンジはそこから再生して、自分が信じ希望を持てる世界の扉(結局A-Tフィールドを取り去った自己と他者の区別も肉体も持たない永遠の世界でなく、他者との葛藤をあえて残し、肉体も捨てない境界のある世界)を開けていくというこころの物語をメタファーとして、本作をラストまで運んだような気がしてしまいました。
かく言うこのわたしもエヴァシリーズが始まったころは子どもの心性しか持たない無茶な若者でしたが、いまや少しだけ大人の分別とこころを持つ人物(これがいいことなのか否かはわかりませんが)になったような気さえしています。
そして今までエヴァを観ながら成長してきた我々にも、本作は、現実のリアルな世界での旅立ちを求めているようにわたしは感じました。
上記の想いは今までエヴァを観てきた一ファンとして、感じたこころのメインテーマのようなものであり、本作はそないな小難しい心象的次元だけではなく、もっと直接的かつ圧倒的に素晴らしい魅力に満ち満ちています。
例えば、アニメならではの映像の構図、鮮やかな色彩と大胆なカット割り、初見では目で追えないほどのスピード感、思わず魂が踊りだす軽快なメカの動きとテンポ、劇場を揺るがす効果音、情景に忍び寄るはっとするような挿入音楽(とくに童謡や昔の歌謡曲の挿入のセンスは舌を巻きます)、どこかで見たような懐かしい直筆手書きの絵、わたしたちが日常なにげなく目にする実写等々・・の膨大な情報をこれでもかというぐらい豊かに提供してくれています。これら圧倒的な情報が絶妙なバランスをとりながら物語として破綻することなく統合していることは意外にすごいことだと思われます。これら情報の集積のバランス感こそがエヴァであり、庵野監督の真骨頂であるように思います。
こうしたわけで、例によっていつものエヴァと同様にまたまた情報過多の本作もこれまでのエヴァと同じく、映画館に3回ほどは通わないととても自分のからだやこころにしっくりと入りそうもありません。
こんな長い駄文を書き連ねても、実はエヴァに対する夢想の十分の一も表現できていないのですが(特に加持リョウジ、渚カオル・・については、言及しだしたらこの長文をはるかに超えてしまいそうです)、きりがないのでもうここら辺で筆を置くこととさせてください。いつかエヴァ好きの友と心ゆくまで語り合いたいものですが、その日が来るのも夢想しておくこととします(笑)。
いずれにせよ、本作は少し時間をおいて、また映画館の暗闇へ修行にでかけることになりそうです。
そしてなんやかんや言っても、庵野秀明監督をはじめとしてエヴァの制作に関わられたすべての人たちに感謝です。しばらく今回終幕を迎えたエヴァへの夢想(妄想?)だけで楽しい日々が続きそうです。その一方で、人生にはこころの旅とも言える現実に向き合った大切な日々が待っています。本作はそんな旅の輝く道標という存在です。素晴らしい終幕まで導いてくださり、ありがとうございました。
庵野監督におかれましては、次作「シン・ウルトラマン」を期待しております。
わたしも明日からまたA-Tフィールドという境界の存在する人生という旅の道程に戻りますが、本作をこころの奥に携えながら歩いていく所存です。
P.S.本文を書いてから実はすでに3回目の修行を終えました。まさかの4回目もあるかもしれません。3回目の予告編で知ったのですが、なんと「シン・仮面ライダー」も制作されるとのこと。わたしももちろんライダー世代であり、どんな作品になるか期待しています。
2021年
3月
15日
月
本作を春の訪れを感じる月曜の夜に、T-Joy東広島にて鑑賞してきました。広島出身の西川美和監督の作品です。常にハズレなしの作品群であり、今回も大いに期待しての鑑賞となりました。
偶然にも前ブログでもヤクザ映画へのコメントでしたが、今回もヤクザという生き方になってしまったひとりの男が、旭川刑務所で刑期を終えるところから映画は始まります。これから二度と服役などしなくても済む人生を歩むことを心に誓った三上という男の生きざまが彼の人生の終幕まで素晴らしいタッチで描かれています。
前回の「ヤクザと家族」でもそうだったのですが、犯してしまった過ちを背負いながら、人生をやり直していけるかというメインテーマに、観る人それぞれ歩んできた人生によって、さまざまな見方が生まれる多角的な作品になっていました。いつもの西川監督の作品どおりです。
しかし、今回は西川監督の創作ではなく、実話を基にした作品というところが重いです。本作の主人公の三上は実際に存在して、懸命に生きて死んでいきます。三上の目を通しても、世界にはさまざまな価値観を持つ人であふれており、よき人もいれば悪しき人もいます。その人々が罪を犯した人物の社会復帰というフィルターを通して彼と出会い、そして別れていく。
わたしも日々、さまざまな人生や想いと触れ合う仕事をしていますが、人々を取り囲む世界や束の間の時に棲む人生というのはいったいどのように構成されているのだろう・・?とあらためて考えさせられる作品となっていました。
三上が死ぬ最後の日に、彼が懸命に選びとった行動にはそれまでの彼らしくないところがありながら、さまざまな人からの薫陶を経て、あえてとった行動であり、新たな可能性を感じさせるものでした。その結果には是非もないのですが、言いようのない複雑で深い想念が生まれたことだけは確かであり、これだから西川監督の作品は必見だなと確認した夜となりました。
P.S. 西川監督の最初期の作品「ゆれる」は邦画史上5本の指に入る傑作であり、まだ未見の方はビデオでいいので、一度鑑賞されることをお勧めします。
2021年
3月
04日
木
本作を2月末の春の気配漂う月曜の夜にT-Joy東広島にて鑑賞してきました。これは観とかないと勿体ない・・との評判を聞きつけ、なんとか間に合いました。
観終わって、いやはやなんというカタルシスの強烈さでしょう。自分がまるで映画の登場人物になったかのような錯覚を久々起こしました。
かつての漢気を磨くという昔ながらのヤクザの世界から、暴対法という時代の風を受けて、変質していくヤクザ世界。そのなかで、ヤクザの世界から足を洗っても、付きまとってくるヤクザであったという過去の穢れ。
ヤクザの世界を求めたわけではなく、こころの通う家族の世界をそこに見つけ、彼なりに懸命に生きてきた山本。その山本が求めた世界は14年の刑務所生活のなかで、消えかかっており、父親と慕った親分(舘ひろしが演じていますが、これがまた渋くて素晴らしいです)も癌に侵され、命も風前の灯火。その親分からもヤクザの世界から足を洗うことを諭され、かたぎの世界で懸命に生きていこうとする山本。
しかし彼を待っていたのは容赦のない社会の鉄槌。かつての仲間からの裏切りや支援を受けながら、なんとか仕事にもつき、かつての恋人と娘との再会を果たしながら、思わぬところから崩れていく温かくも砂のような家族の楼閣。
過去のしがらみや因習に彼なりのけじめをつけながら、どこにも行けない山本。そして衝撃のラストシーンが訪れます。問題のラストシーン・・・。(実は映画のファーストシーンにも繋がっているのですが)わたしも「まじですか、そう来ましたか~」と唸り、その後さまざまな回想シーンへこころが運ばれていくような作品でした。
見どころの多い作品ですが、本作の一番の肝は主人公・山本を演ずる綾野剛の目です。彼の目がセリフなしでも思いを雄弁に物語っており、怒りや優しさ、無念さ、悟りなどさまざまなシーンで彼の目が積極的に物語を動かしており、わかってはいたことですが、いまさらながらに、すごい俳優だな~と感心しました。
そして物語の暗転に、意外に大きな要因となるSNSという現代における凶器の存在です。すべてをやり直し、幸せに生きていこうとする山本や仲間たちの生活を崩していくその狂暴性は切ないほど強力で無慈悲です。かつて物理的な暴力を武器に社会を蹂躙していたヤクザが、新たな時代の代名詞というべきSNSという暴力によって人生を破壊されていくわけであり、なにかの啓示のように重くのしかかるテーマも内包していました。
さまざまなテーマを抱える本作は評判どおりの傑作であり、もっと話題にされてもいいと言える作品でした。綾野剛さん、藤井道人監督には今後も注目せざるを得ないなとこころに決めて春の近づく真夜中の風を感じながら帰路に着きました。
2021年
2月
23日
火
本作を偶然みかけた印象的な予告編につられて、春遠からじの2月中旬にT-Joy東広島にて修行してきました。「動機はそちらで見つけてください」と語った、父親殺しのアナウンサー志望の女子大生の娘の投げやりなセリフ。このセリフだけでいったい何が本作には隠されているのだろう?という気持ちになり、広告コピーとしても出色の出来だと感じていました。
物語は、公認心理士の主人公とその義弟となるイケメン弁護士の過去にも遡りながら、徐々に事件の真相を暴いていきます。ラストはなるほどそう来たか~という終幕を迎えますが、事件の発端となった女子大生のトラウマはかなり独特のものであり、「人はそれぞれのこころとからだと価値観をもつ」というのは、わたしのような仕事に従ずるものにとっては、常に心掛けなければならない命題ですが、まさに本作はそれを表現していたような気がします。
有り体の家族ではないが故の、母親による、夫に対するひけめを伴った娘への無理解、傲慢さがこの物語の多くを占めていましたが、謎を追う心理士の過去にも親に対する重大な闇があり、それらが事件の犯人?の女子大生の心象とかぶってきます。
上出来の心理サスペンスを観させてもらいました。それにしても、親の不用意かつ身勝手な言動というのは、いかに子どもに影響をもたらし、ときには子どもたちの未来さえ変えてしまうことを本作は警告しており、わたしもしっかりそのメッセージを受け取らねば・・なんて思いながら春の気配が匂いつつある闇のなかを家路に向かいました。
2021年
2月
12日
金
本作を2月に入った月曜の夜に体験してきました。テレビドラマの傑作「カルテット」(テレビドラマを普段見ることのないわたしも偶然人から勧められ見させてもらいました)の土井裕泰監督と脚本家の坂元裕さんのタッグによる恋愛映画です。
大学生時代のある夜、偶然終電に同時に乗り遅れたことから知り合ってお酒でも飲みながら話してみたら、好みや考え方、価値観が驚くほど一致して、必然的に恋に落ち、多摩川を見下ろす古いお洒落なマンションでの同棲生活に突入するふたり。
その後、大学を卒業したものの、ともに過ごす時間を大切にするため、定職につかずフリーター的生活を実行したふたり。
しかし、世間体を重んずる親や周囲からの圧力もあり、ともに寄り添う生活をいつまでも末永く続けるために、あえてお互い定職に就くことを選択したふたり。
その後の帰結として、就職を機に互いに仕事の多忙さに絡まれていくなかで、互いにすれ違う時間が多くなり、まだまだ愛し理解しあいながら、それゆえに自分たちの立ち位置を十分に了解し、別れていくふたりを時系列に描くという物語です。
偶然の出会いから別れまでの5年間の軌跡を時系列に沿いながら淡々とどちらかと言えば穏やかな空気感で描いた作品なのですが、そのときどきのお互いのセリフや態度の変遷からふたりのこころ、興味の方向や生活スタイル、人生の行方が微妙にずれていく様や心の遷り変わりを落ち着いた筆致で一筆書きのように描かれています。
また本作は隠し味として、ふたりの好きなサブカルチャーが劇中にふんだんに登場します。「押井守」(本人が出演していたのもちょっとしたサプライズ)をはじめとして、かなり具体的にマニアックに提示されており、これがまたリアリティを高めており、わたしのようなものでも、サブカルやこれらの若き日に出会う記号を通して、人生の若き日の一時期にこのふたりの関係と相似形のような関係を持った覚えがあり、若き日のひとつの典型的心象風景として、本作は出色の出来だと思いました。
ふたりで訪れた老夫婦が営む手作りパン屋さん、疲れ果てながら勉強したり語り合ったりした深夜のファミレス、便利が悪いながらも目の前には公園のような河川敷をのぞめる絶景のベランダを持つマンション・・・。どれもいつかどこかで自分も似たような体験をした温かさ、懐かしさの感触がありました。
観ていて、なんだか訳もなくほろりと涙が落ちてくるような、こころの奥にしまった倉庫のドアをノックしてくれた本作は、こころにそっとしまっておく大事な一品となりました。
2021年
2月
01日
月
本作を遅まきがら、やっとタイミングがあい、T-Joy東広島にて鑑賞してきました。予告編をみるだけで、不気味で強烈に怖い世界が待っているという印象にかられる本作は、週刊少年ジャンプにてすでにコミック累計2500万部の大ヒットを誇る原作の映画化ということであり、どんな物語なんだろうと興味を持ちながらの修行となりました。
観終わって思ったのは、本作においてはおそらく「わたしを離さないで」と「進撃の巨人」という名作の先達にインスパイアされた世界が展開されていました。一見平和で慈悲深い環境で暮らす少年少女たちを待ち構えている不条理と暴力に溢れる残酷な世界・・・。もちろん孤児院も壁も出てきます。
そんなデジャブ感のある世界でしたが、やはりその世界からの脱出物語はとても楽しめました。とくに孤児院の広大な森、輝くような緑と子どもたちがたわむれる映像は、映画ならではの大画面ではうっとりするほど透明感のある緑色が映えており幻想的で素晴らしい出来でした。
ただ本作はやっと壁を越えた少年少女たちというところで終わっており、「進撃の巨人」ならばここからがやっと本番であり、あのマーレの世界が待っているはずであり、もしや原作漫画にはそれがたっぷりと表現されているのかもしれませんが、原作漫画を読んでいない自分のような不束者には、映画だけではその点がまったく不明なので、やや未消化に終わってしまった感覚が残りました。続編も含め、今後に期待の作品でした。
2021年
1月
20日
水
コロナで上映がのびのびになっていた本作をやっと体験してこれました。前作「スタンドバイミー」はその手があったかというようなディズニー顔負けのマリオネーションアニメに、ドラえもんのなかでも一番泣けてくるエピソードを複数組み合わせて挿入し、何回観ても泣けるという作品だっただけに、今回の「2」にも期待が否応なしに高まりながらの鑑賞となりました。
内容的には、前回の続きともいえる、未来でののび太としずかちゃんとの結婚式の日のドタバタです。のび太がなぜか会場に現れない・・・。その非常事態を子どもののび太とドラえもんがなんとかしようとタイムマシンでおばあちゃんのところにまで行き、おばあちゃんの願いをもかなえて、なんとかふたりが無事未来へと歩みだすという物語になっています。相変わらず近未来の日本を美しいCGで見せてくれており、こんな街に住んでみたいなんて夢想してしまいそうです。
物語の内容としては、今作は起承転結で言えば、「承」という印象を持ちました。物語的にはやや地味ではあります。しかしあくまで本作は完結しておらず、しずかちゃんと結婚したのび太がこれからどう彼女をいかに幸せにしていくかに必然的に興味が向かいます。失敗ばかりだけれど、こころの優しいのび太君を選んだしずかちゃん。とてもめでたい展開ながらも観るものとしては、のび太&しずかのカップルのこの先が少々心配ではあります。観終わったばかりなのに、できればすぐにこの先の展開を観たくてたまらなくなりました。
実はそうした少年時代の主人公たちの未来を描いた作品が藤子不二雄先生にはあります。映像化はされていないのですが、かつて藤子先生のもう一つの名作「オバQ」の世界には、その後、「劇画・オバQ」という形で、未来のオバQ、大人になった正太、よっちゃん、ゴジラを描いており、シュールな現実ながらも素晴らしく示唆に富んだ作品でした。
この未来作品のドラえもん版を映画という形で、のび太くんやしずかちゃん、ジャイアンらの成長を観ることができるのならこんなうれしいことはありません。
というわけで、ぜひ、このマリオネーション・ドラえもんはシリーズ化して、行くところまで行ってほしいものです。わたしもどんなに年をとっても映画館に観に行くつもりですのでよろしくお願いします。
2021年
1月
08日
金
明けましておめでとうございます。本年も四季のこころクリニックともどもよろしくお願いいたします。
コロナ禍のなか、当院も1月4日に無事今年の仕事初めを迎えました。
今年の年末年始は異例でした。毎年の帰省も今年はやむなく中止とし、ここ東広島にてゆっくり過ごしました。普段は愛知までの往復に2日ほど費やすだけにそれがなくなるとずい分時間に余裕が出き、普段はゆっくり観れない映画やアニメなど自宅にて鑑賞三昧の時間を過ごしました。おかげで、「新劇場版エヴァンゲリオン」「アオイホノオ」の復習、「進撃の巨人アニメシリーズ」の初体験等々を一気に終えました。
そうしたゆったりした時間の一方で、コロナ騒ぎは収束の気配すらありません。コロナウィルス自体は新型と言っても、すでに7世代めの風邪ウィルスの仲間であり、感染力はそこそこ強くても、季節性インフルエンザの死者(毎年10000人)と比べてもさほど多くないのに、この騒ぎ。それらの結果、自粛の嵐は吹きすさび経済は止まってしまいそうです。とくに飲食業や旅行業に携わる人たちのことが心配です。
また土地柄、通院する大学生の方もまずまずおられますが、状況を伺うと、今年は大学卒業後の謝恩会はほぼ中止、卒業旅行さえも自粛の対象ということであり、社会に出る前の最期の休みなのに本当にさえない事態です。
これら自粛の嵐の一要因として、行政はコロナをもっとも凶悪な1-2類指定感染症相当と指定していることが挙げられます。まるでエボラ出血熱か鳥インフルエンザのような取り扱いを要求しているため、実際に対応する医療現場は宇宙服のような防護服で対応したり等々常にシビアな対応を迫られ、とても疲弊しています。こうした事態を医療崩壊の危機だと煽るため、余計に自粛に歯止めがかからなくなっています。
またウィルスに対する免疫力の人種差や国ごとの衛生観念の差異もまったく無視して、グローバリズムの追い風に乗り、イギリスやフランス、アメリカ等世界で起こっている惨状は等しく日本でも起こると仮定して、被害の想定を安易に早期に発表し、人々を煽り続けている学者や医者も非常に問題のように思えます。そうした学者たちが出世し、注目され、メディアでも持ち上げられているのは嘆かわしい限りです。
せめてそうした状況の打開策として、現実に即した感染症5類指定へおろすことができないものでしょうか?これはもう一行政ではなく、政府もしくは菅総理大臣の勇気ある決断が必要です。実は安倍前首相が昨夏の時点で5類への是正の必要性に言及していたのですが、その後実行に至る前に体調不良で辞任され、結局あいまいになり霧散してしまいました。
柄にもなくいろいろ案じたりしました。しかし上記のことなどはわたしがどうのこうのできる案件ではなく、結局わたしのできることは目の前に来られるこころがしんどくなった患者さんと誠実に対峙し、もしその症状がこころの病に関するものであれば、医療的に癒していくことしかできないわけで、今後もその道の研鑽を積んでいく心積もりです。
今年も本ブログにおいて、いろいろざっくばらんに考えたり、思ったり、感じたことをときどき発信していきますので、ときどき覗いてみてやってください。よろしくお願いいたします。
P.S.今年会えなかった幼馴染のみんなへ。来年は必ず故郷にて再会できることを祈っています。
2020年
12月
24日
木
いよいよ暮も押し迫った冷え込む夜に、T-Joy東広島にて本作を修行してきました。
三國志と言えば、わたしも少年の頃、原典そのものでないのですが、吉川英治版で、その壮大な人の営み、絆、世界の広さと温かさと残酷さ、無常さに酔いしれ、読書の楽しみを教わった記憶があります。本作でも取り上げられた赤壁の戦い周辺はその三國志の世界のなかでも大きなクライマックスのシーンと言えます。
魏軍80万人 VS 呉・蜀連合軍3万人。こんな圧倒的な兵力差がどのようにひっくり返されたのか、新解釈を楽しみにしての鑑賞となりました。
観終わって感じたことは、とても笑わせてもらいました。本作の売りである、登場人物らの新たな人間像の構築は、「そう来たか~」という感じで確かに斬新に感じました。そのなかでも本作で表現された劉備の無責任ぶりと臆病さ、情けなさはすこぶる出色です。
当時三國志を読んでいた際も、劉備玄徳に対する素朴な疑問は常につきまとっていましたからです。とくに彼の出自に関して、あの漢帝国を築いた劉邦の末裔という自己脚色は本当かな?という疑念を越えて、たぶんはったり?とも感じられ、かなり胡散臭く感じたものでした。戦にての彼本人の弱さも特筆すべきで、英雄というよりはその愛嬌やキャラクター(もちろんそれも素晴らしい才能ですが)で老若男女から愛される大酒飲みのあんちゃんだったのではないか?とよく思ったものです。それが大画面いっぱいに表現されているのですから、観ていて痛快でした。
関羽ら部下の武将に関しては関羽をはじめそれほど大きな改変はなかったです。かろうじて趙雲が義に生きるという面もありながら、実はナルシスト(自己陶酔型人間)であったのでは?というところですが、その可能性は十分あります。
また諸葛孔明に関しては度肝を抜かれるほど思い切った改変です。聡明な妻が実はブレインで、はったりだけはあるものの無策で知恵もない孔明。なんと彼は困ったら、妻からアイデアを聞きそれを自分のアイデアであるかのように実行していたというくだりは、さすがにやりすぎかな~という感じはありました(汗)。孔明に関しては、以前から中国出身でない異人説も有力(もちろん呂布もですが)であり、そちらからの切り口でも面白かったのでは?なんて思ったりもしました。
そして赤壁の戦いです。周瑜の孔明への意地悪に端を発した10万本の矢獲得作戦は霧のなかの映像も幻想的で、映画ならでは大きな仕掛けで鮮やかに表現されていました。また勝敗の決め手ともなった、赤壁の戦いでは絶対に外すことができないであろう重要な「連環の計」も表現されていましたが、そのアイデアの源泉であり、伝達役も担った龐統(当時のわたしにとって孔明より推しメンでした)の存在と、計を見破りながらあえて見逃がした曹操軍側の徐庶の劇的エピソードは省かれていました。ここはシリアスな場面であり、あまり奇抜な変革はしにくかったのか、表現するには上映時間が足りなかったのか、個人的には少し残念なところでした。
それにしても主役の大泉洋。素晴らしかったです。コミカルでもありながらも同時に真面目な役を演じられる二面性を持つ深みのある役者に成長しつつあります。「探偵はBarにいる」でもそれらは十分発揮されているのですが、情けなくも人望のある劉備玄徳をしっかり演じ切っていました。彼がいるだけで、場を温かくリラックスさせる空気が醸成されているような気さえします。友達になりたくなるようなチャーミングさです。
いろいろ思うままに綴りましたが、なんやかんや言って面白く、味わい深く鑑賞させてもらいました。数年前に中国で制作された「レッドクリフ(赤壁)」よりもエンターテイメントとしては出来がいいのではないでしょうか?
本作の続編として、赤壁後の魏呉蜀による三国時代の完成を続編として描いてもらいたい気もしますが、関羽が死んだり、劉備も死んだりと悲劇的側面がかなり出てくるので、さすがにコミカルに描くのは至難の業であり、難しいかもしれませんね。
2020年
12月
14日
月
本作を冬の真夜中にT-Joy東広島にて鑑賞してきました。あのグリコ森永事件の犯人像を取り扱った映画です。
事件はもう今から35年ほど前に実際にあった日本初ともいえる阪神および中京地方を含む広域を舞台とした劇場型犯罪でした。当時の人で知らない人はいないというほど大事件であり、コミカルなタイプライターによるひらがな中心の脅迫文、現金受け渡し場所を指定する単調な子どもの声、大阪や愛知のスーパーに実際に置かれた毒入りお菓子、そしてグリコの江崎社長の誘拐。コミカルながら得体の知れない、底知れぬ深さのある不気味な事件でした。捜査陣もそれにかく乱されたのか、名神高速大津SAなどで犯人グループの一人であるキツネ目の男を目視で捕捉しながら、警察の命令系統の不備により指をくわえて取り逃すという大失態もあり、結局犯人は捕まらず、遺留品や足跡の多さにも関わらず迷宮入りした事件です。
それを大胆にも、事件の動機、経緯から犯人像、そして事件の影にあった家族や声の主となった子供たちの悲劇をまるで本当にあったことのように表現した原作の映画化です。どんな映画体験になるか久々わくわくするような気持ちで映画上映に臨みました。
観終わって一言。本作は度肝を抜くような傑作でした。
映画のなかでは結末を含め、事件は見事に解決していました。このなかで本事件が実はオランダで実際に起きた事件の模倣であったということも初めて知りました。わたしを含め当時生きていた人々にとっては、本作で初めて知る事実も多く、謎だらけの事件をひも解く、目から鱗の事実の連続でした。
しかし事件の謎解きにとどまらず、図らずも事件に関与したさまざまな人の人生を巻き込んでいったその変遷が悲しみと無念を伴いながら、たったの2時間のなかで、これでもかというぐらいダイナミックにあふれるような映像で描かれていました。まるでノンフィクションのような衝撃とさまざまな人のドロドロとした欲望と怨念を観た思いがしました。
よい作品というのはいつも複合的であります。本作でも、子どもを巻き込みたくないと願う現在に生きる成長した罪の声の主と対称的に、子どもを無慈悲に容赦なく事件の声に使い、その人生を大きく悲劇的に狂わせながら、闇のなかに逃亡した犯人たち・・・。まるで幾何学のようなコントラストも隠し味として効いていました。たぶん作者や監督はこちらこそ描きたかった主題なのだと思います。なんやかんやで含蓄のある奥の深い作品でした。
本作は犯人像に関してはあくまでもフィクションですが、本作を観た真犯人(もう時効も成立しています)が、感動?もしくは憤り?のあまり「ちゃうちゃう げんじつはもっとどろどろでっせ わしがしんじつおしえたる どくいりさかいかんべんな 怪人21めんそう 」と、いつか本事件に関する本でも書いてほしいという気持ちになりました。
いずれにせよ「いやあ~映画ってホントに素晴らしいです」と思わず嘆息にふける一作でした。
2020年
12月
08日
火
本作を暮の押し迫った夜にわが街の映画館T-Joy東広島にて観てきました。残念ながらまばらな映画館でのゆったりした鑑賞でした。
アイドルとしてだけでなく、俳優としてきらりと光っている二宮和也さんの最新作です。今回はカメラを通じて家族の夢をとらえ、写真のなかでの実現を果たし、それをそのまま作品とし、写真家世界の芥川賞と呼ばれる木村伊兵衛写真賞をとった浅田政志さんをモデルにしています。
びっくりするのはこれがほぼ実話ということです。お父さんが専業主夫でお母さんが看護師をしながら働き頭で一家の大黒柱。その普通とは異なるちょっと変わった環境のなかで思ったことをそのままやりたいようにやりながら成長していく少年。
まるで70年代中盤のジョンレノン家族のような、ほんわかして温かい家族が、わが故郷愛知のお隣三重県の松坂に実在していたということに驚かされました。加えて、写真を通して、家族の温かい感触がどんどん拡大していき、悲劇の災害を越えてやがて日本全体にしみ込んでいった奇跡を追体験するような時間となりました。
振り返ればわたしも変わった家族のなかで育ったという点では人語に落ちないのですが、それがこんな素晴らしい形で昇華していくというのは奇跡であり、人の世の物語は途方もなく、これこそが人生の意味なのかも・・・なんて思えた夜でした。
2020年
12月
01日
火
本作を木枯らしが吹きすさぶ夜に観てきました。角川春樹監督渾身の一作という触れ込みの作品であり、まだ若き頃彼のプロデュースによるあの"読んでから観るか、観てから読むか!?”のコピーが有名な「人間の証明」「野性の証明」「戦国自衛隊」「セーラー服の機関銃」といった錚々たる角川映画の作品群による洗礼を受けてきた小生などにとってはやはり避けては通れない作品です。
作品としては、美しくも切ない物語が編まれていました。幼き頃、同じ地域で生まれ育ち魂が通い合った親友が、生来の厳しい境遇に加えて天災にも遭ってしまい離れ離れになってしまう。その波乱万丈の人生を通して、お互い必死に生き抜いた後に訪れる運命的な再会。
お互いもう振り返ったり戻れない厳しい世界に所属し、お天道様様の下ともに会ったりゆっくり語ることさえはばかられる境遇になってしまいながら、子どものころに交わした暗号のような言葉によって、確かに幼馴染のふたりであることを確認するくだりは思わず泣けてきます。
それにしてもすごい直球でした。微妙な変化とかあえてつけずにストレートど真ん中です。久々渾身の剛速球を受けた捕手のような心境になりました。
この時代にあえて一切の外連味も加えず剛速球で勝負する角川監督の男気を観た作品となりました。角川監督、監督の久々の料理は非常に美味でしたよ。御馳走様でした。またの料理も期待しています。
2020年
11月
25日
水
本作をT-Joy東広島1番シアターにて鑑賞してきました。人気漫画でもあり、ネットフリックスやアマゾンプライム・ビデオの配信もあり、大人気アニメの続編映画版です。
びっくりしたのは、その盛況ぶりです。柄にもなくいつもの平日の夜ではなく日曜日に映画館に行ってしまったのも失敗でしたが、満員御礼のあまり10年ぶり以上に最前列の席で真上を見ながらの鑑賞となりました。
映画自体の内容はほぼ完璧な出来映えでした。煉獄さんの豪快さと明るさと勇気が大画面に鮮やかに力強く真っ赤な炎のように炸裂していました。わたしでなくとも誰もがこの銀幕のなかに佇む煉獄さんにうっとり
惚れこんでしまいそうです。
ところで本作の大ヒットについて少し考えると、漫画自体も素晴らしいですが、本作の成功の最大要因は「アニプレックス」によるきめ細やかでいて大胆な色使いのアニメ映像化なのではないでしょうか?アニメなのに強弱をつけた線も美しく、その色合いも相まって本当にうっとりするぐらい画面がきれいでした。
そして物語の内容も、技も切れ、快活で後輩思い、非の打ち所がない煉獄さんのキャラクターとその動きに圧倒されます。剣の技術や性格の良さもさることながら、その志と能力の高さゆえに、鬼にまで評価され永遠の命をえさに鬼世界への入会を誘われながら、幼き頃の母親との約束を決して忘れずに、鬼と戦い抜き潔く殉死していくその魂。これで泣けなかったら嘘というぐらいの展開に思わず涙と郷愁を誘います。
これらを観て思い出したのは、かつてディズニーのライオンキングを観たときにも感じた親子の絆の尊さとそれを継いでいく次世代の魂の永遠です。こうした魂の物語の大正時代版であり、老若男女から拍手喝采を受けるのも納得です。いやはや度肝を抜かれた作品でした。
できたら今度は10列めより後ろぐらいの席からもう一度修行しなければと思わせる作品でありました。
2020年
11月
16日
月
本作を秋の押し迫った夜長にT-Joy東広島にて鑑賞してきました。
タイトルが印象的な本作はあの「君の膵臓を食べたい」の住野よるさんの原作です。まったく前情報なしの鑑賞となりましたが、文句なしに楽しめる内容でした。
人とのコミュニケーションが苦手で人を避けてきた楓と、場の空気が読めず思ったままを行動に移す秋好が大学のキャンパスで偶然?出会ったことから物語は始まります。
「世界を変える」というモチーフを抱え、サークル「モアイ」を立ち上げるふたり。サークルが思惑以上に大きく拡大していくなかで、大義も風になびき、若い男女ゆえの恋愛など個人的感情も複雑に絡み、徐々に流されていくふたり。そのなかで決定的に訪れる別れ。その過程で決定的に喪われた秋好。その秋好を取り戻すべく柄にもなく自発的に動き出す楓。彼自身の革命が始まる。そして訪れる意外な結末・・・。
大学時代は誰もが「世界を変えたい」というか「何かを変えたい」という想いを胸に抱きながらキャンパスライフを送る時期があるのではないでしょうか?わたしにもそんな時期があったような気がしますが、時は残酷に流れ去り、いまやしがない中年のこころ医者がひとりです(笑)。
そんな覚えがあるからかどうかはわかりませんが、本作はこころのどこかを激しくノックするものがあり、まるでかつての活動的だった魂をマッサージされたような気分で帰路に着きました。誰にでもおすすめはしませんが、個人的にはこころに深く突き刺さる一作でした。
2020年
11月
02日
月
本作を秋の夜長にT-Joy東広島にて修行してきました。トランジェンダーを下敷きに、男女という枠を越えた愛の交流の物語です。
物語は故郷広島を離れてから自分の女性性に気づき、女性として東京で生きる凪沙の波乱万丈の生きざまです。
そんな彼(彼女?)が、実家のある東広島市(なんとわが街です)から姪っ子を預かることになり、物語が動いていきます。
ふたりとも周囲から浮いており、世間になじむこともできない孤独な魂を抱えています。
そんなふたりが冷酷な社会のなかでぎりぎりサバイバルしていながら、姪っ子のなかに潜む才能の光が徐々に顕れてきます。
それに気づいた彼が人生をかけて選択する行為・・・。これには賛否両論があることだと思います。わたしも正直なぜにそこまで・・?と思いながら、そうした選択をせざるを得ないほど、彼らは切実に懸命に真剣に生きてきたのだ・・・と理解しました。
ふたつの魂の交流を活写する本作。うーんとうなりながら堪能させてもらいました。
おそらく本作は、時を越えて永く評価されていく作品になっていくのだと思います。今夜は名作を鑑賞させてもらった夜となりました。
2020年
10月
20日
火
本作をまだまだ続く秋の夜長にT-Joy東広島の一番シアターにて観てきました。太平洋戦争の分岐点となったミッドウェイ海戦を描く超大作です。
ミッドウェイ。以前映画「山本五十六」でも書いたと記憶していますが、歴史好きの日本人としては何とも重苦しい響きを持つ言葉であり、文字通り我が国の命運を分けた戦いの場所です。
また世界史的にも、世界一広い太平洋という海洋のなかの米粒のような小さな島をめぐって両国が命運をかけて一点で激突したという稀有な海戦であったような気がします。
本作はアメリカ側からの視点がもちろん中心ですが、日本側の内面もまずまず書かれています。
山本五十六の賢明すぎるゆえの諦観漂う戦略、南雲忠一の自国への誇りゆえに敵国を甘く見過ぎた油断、山口多聞の鋭利でありながら生かされなかった戦術眼なども軽くですが表現されています。
しかし何より本作の素晴らしさは、この複雑で深遠なる海戦を映像と音響を通してしっかりと迫力十分に表現していることではないでしょうか?
これまでミッドウェイや真珠湾を描いた映画を数々観てきましたが、これに関しては最高傑作であること間違いなしです。T-Joyの1番シアターにての鑑賞でわたしもすっかり圧倒されました。
いつもミッドウェイ海戦のことを考えると、世界一の技術を持ちながら、空母から飛び立つこともできずに海に散った数多くの優秀な零戦パイロットや艦とともに敢えて沈んだ山口多聞らのことを感傷的に考えてしまうわたしですが、本作により戦争の多面性、複雑さ、迫力と残酷さ、悲しさを今さらながらに思い出させてもらいました。
歴史的にこうした戦いを経験した子孫である我々は、未来永劫にこうした戦いを選択しなくてもいいように日頃から生きていきたいものです。
2020年
10月
10日
土
本作を例によって月曜の真夜中にT-Joy東広島にて鑑賞してきました。まずタイトルが懐かしい響きです。最近は「カメラを止めるな!」でも採用されましたが、こうした!の命令口調タイトルを聞いただけで、その命令に至るまでにどんな経過や内容があるのだろう?なんて想像してしまいます。かつて60年代末に制作されたニューシネマの邦題も「明日に向かって撃て!」とか「俺たちに明日はない!」とか!マーク入りで、はたまたどんな物語が待っているのだろうと思ったものです。
さて本作ですが、とても夢のある作品でした。想像力旺盛で、現実を大きく凌駕するアニメーション制作に命を懸ける?浅草みどり。一方では見知らぬ人との会話などになると、どうしていいかわからず卒倒してしまうほどの人見知り。まるでアスペルガー傾向の発達障害的女の子。こんな彼女が高校の部活を舞台に、共感できる友人を得ながら、学校での一番の権力機構・生徒会執行部の妨害を受けながら、自らの感性を爆発させ、親友らとこれまでの常識を覆すアニメーションを制作していく。高校生の物語なのですが、わたしはまるで小学校のときに過ごした夢いっぱいのハチャメチャで二度と戻れない輝いていた時間を懐かしく思い出しました。
本作はもともと漫画が原作で、アニメが先に制作され、待望の実写化ということですが、原作を読んでいたらまた印象が変わるのでは・・?いつか読んでみよう・・と思いながら、帰宅の途に就きました。
2020年
10月
01日
木
秋の真っただ中のとある月曜日の夜に本作をT-Joy東広島にて鑑賞してきました。気鋭の映像作家の長編デビュー作ということで、タイトルの奇妙さが印象に残っている程度の知識での修行と相成りました。
観終わって思ったのは、なんとも摩訶不思議な世界が展開されており、リアリティがどうのこうの・・というよりは、監督の想像力の翼でこんな世界の切り取り方ってどうですか?と提示され、観るこちら側の感性を試されているように感じました。
曜日ごとに人格が変わる不思議な青年。事故の後遺症ということですが、さすがにわたしのようなぼんくら医者の目から見ても、こういった病や状況にリアリティはまったく感じません。しかし、もしも自分がそんな立場になって、曜日ごとに7人7様の人生を楽しむことができたら・・と考えると、これはこれで面白い設定であり、子どもの頃、わたし自身よくそんな空想に浸っていたことがしばしばあり、これを大人になってもなお映画作品(しかもメジャー作品)という形でしっかり映像や物語を構築してしまう吉野耕平監督の力技に感服しました。
ちなみに本作において、一番わたしの感性を刺激した要素は、上記のような不思議な世界よりも、監督(撮影や照明スタッフの寄与も含めて)の切り取る登場人物、とくに女性たちの画面いっぱいに広がる存在感と人間的魅力です。石橋菜津美さん、深川麻衣さんという女優さんに向けられるカメラというフィルターを通した優しく温かいまなざし。
彼女らの魅力はストーリー自体や主人公さえ凌駕しているのでは?と感じるほどフィルムを通してきらめいており、恥ずかしながら本作を観るまでまったく知らない存在でしたが、観終わった後にすぐに彼女らのプロフィールを確認するほどの、魅力的なオーラが暗闇の映画館の大スクリーンいっぱいに展開されていました。
こんなに女性を魅力的に撮るとは吉野監督なかなかやります。本作を観ながら、10代のころに体験した、心のうちの理想の少女像を追い求めていた、少女像の構築にかけては右に出るものがいなかった偉大なる映像作家・大林宣彦監督の一連の作品群を思い出したりしました。
本作での吉野監督の対象は20代の女性ですが、今後この感性(あるいは手癖?)がどう進化・発展していくのか、今年惜しくも亡くなられた大林宣彦監督の再来なるのか、それとも本作のみの偶然の出来栄えのみで収束していくのか・・・。さてさて次作はどうなるのか?
そんな我ながら奇妙な妄想が頭を浮かぶ自分をもまた不思議に思いながら、次作を楽しみに待って居ようと、真夜中のとばりのなか、自らの巣へ戻る秋の夜長なのでした。
2020年
9月
30日
水
本作を9月のとある月曜の夜にT-Joy東広島にて修行してきました。
いまや青春恋愛映画の巨匠・三木孝浩監督の最新作です。原作はあの「アオハライド」の咲坂伊緒です。わたしはまたまた原作を読まずに映画鑑賞だけなのですが、「ストロボ・エッジ」と「アオハライド」に続く青春三部作の最終作とのことです。(なぜかこの二作もしっかり映画館で観ています。)なんと実写版のあとには、アニメ版も控えているという熱の入れ方であり、さぞかしファンの支持を得ている作品とお見受けしました。いつものことながら、わたしの知らない世界ではいつも激しい熱狂や素晴らしい感動がうずまき躍動しているのだと痛感しながら、そのおこぼれをせめて映画という形で体験しようとはせ参じてきました。
以前に「アオハライド」や「きみの膵臓を食べたい」などでも書いたと思うのですが、こういった高校青春ものはいい歳して結構好きなのです。個人的に高校時代は大学入試突破という自分にとっては、当時のつらく厳しい生活からの脱出プロジェクト(わたしにとっては大げさかもしれませんが、映画「栄光への脱出」のようなもので当時の実感としてはそれぐらいリアルで切実な問題でした)が大きすぎてゆっくり恋愛(お互い好きあっていたのに十分な時間もこころの余裕もなく、付き合うと決めてからたったの2週間ほどで終わるという悲恋もありました)などする時間などもなく、ろくな高校青春時代を送ってこなかったことへの埋め合わせもしくはレクイエムとしての青春映画巡礼なのかもしれない・・・とこの頃は思ったりします。
さて本作ですが。「きみ膵」でカップルを演じた浜辺美波さんと北村匠海さんとの再共演が興味をそそるところですが、彼らがハッピーエンドになると思わせて、いい意味で必然的な肩透かしに会います。でもそれがいいのです。
青春はそれぞれの思惑・家庭の事情・出会いのタイミングなど絶妙に絡み合いながら、やがて次のステップに昇華していくなかでの想いや葛藤の揺れを切なく描くという物語でした。いつも感心するのですが、三木監督の映像や光の切り取り方がミュージッククリップの一シーンのように青春の一瞬間を美しく儚く切り取っており、わたしなどはどんなテーマでも三木監督作品なら、その独特の光や音や淡い色が織りなす映像世界に抱かれること請け合いであり、吸い寄せられるように観ています。あまり意識していなかったのですが、これはもうファンと言ってもいい次元なのでは・・・なんて思いながら、本作でも青春の淡い夢や感傷を刺激され、ゆるゆると帰路に着きました。三木監督、今後も素敵な青春の光と影の一瞬を切り取るような作品を期待しています。
P.S.ところで、浜辺さんや北村くんは「きみ膵」のころとは違い、もうすっかり大人であり、今回の高校1年生という設定というのはさすがに苦しくなりつつつあるな~と思いながら観ていました。そういう意味では、本作は,浜辺美波さんや北村匠海くんが高校生役として演ずる最後の作品なのかもしれないわけで、「もう映画館では高校生のこのふたりに会うのは最後なんだ」と不思議にしみじみしながら、ありがたく修行させてもらいました。今後のふたりの飛躍を広島の片隅にて真っ暗な映画館の光と影の下で楽しみにしています。
2020年
9月
24日
木
本作を秋の気配が漂う月のきれいな夜に、T-Joy東広島にて修行してきました。ディズニーが誇るアニメ部門・ピクサーの最新作です。
父親を幼い頃不慮の事故から喪った兄弟ふたりが、父親に会える奇跡を夢見て求めながら、父親との再会を実現する過程で兄弟の絆、かけがえのないお互いの存在を確認する物語です。ディズニーが最近執拗に表現する家族愛、兄弟愛、同胞愛を表現するこころあたたまる作品です。
同様なテーマである、前作の「リメンバー・ミー」の方はさらに移民問題も背景にしており、より深い感慨が湧きましたが、本作はそうした社会問題を絡めず、ストレートに兄弟愛を押し出しており、難しいことを考えず、楽しいマリオネーション・アニメにどっぷりと心も体も浸しながら、ロッキングチェアに揺られているような心持ちで、ディズニー印のファンタジーを堪能させてもらいました。
気づいてみたら、ディズニー映画にハズレなしということも今回も実感しながら、温められたこころを抱えながら帰路に着きました。
2020年
9月
12日
土
本作を秋の気配が漂ってきた9月の夜にT-Joy東広島にて修行してきました。最近、ひとつのジャンルを形成しつつある高校部活映画です。
原作はなんと累計2500万部も売れている大ヒット漫画とのこと。わたしも昔は漫画好きとして人語に落ちないほどさまざまな漫画を読んでいた時代もあるのですが、すっかり衰えました。恥ずかしながら、まったくその大ヒット原作の存在さえ知らない状態での修行となりました。
アニメグッズ購入のため自転車で秋葉原に通いつづけた結果、知らぬ間に自転車をこぐための類まれな脚力を身に着けた坂道少年がひょんなことから自転車競走部の世界を知り、その世界に入り、仲間と切磋琢磨することを通して、「One For All」「All For One」というスピリットを身体にしみ込ませながら、素晴らしい仲間やライバル、先輩を得て、人格成長を遂げていくというストーリーです。
上記のように書いてしまうと、「えっ、それだけの話なの?」と言われそうですが、これが実際の映像や時間というフィルターを通して表現されると、雄弁で深みのある物語となり、なにか人生で大切なものを思い出させてくれるような体験となるのが映画の魔法です。
わたしもこの魔法にすっかりやられ、十代のころを思い出し、すっかり元気になりました。
本作の秋葉原自転車通いのエピソードですが、実はわたしにも似たような体験があり、余計に共感させるものとなりました。小学高学年から中学前半のころ、わたしも同じように珍しい漫画(主に手塚治虫先生や石森章太郎先生の作品でした)を求めて、片道10キロから20キロは離れた街の本屋まで自転車で遠征していました。その目的地は名古屋の中心街や一宮、四日市といった街たちでした。わたしの住んでいた街からそれらの街へは往復にすると、20キロから40キロほどはありました。
そんなもの注文すればいいじゃない?と思われる方もいるかもしれませんが、当時は今と違い、残念ながら漫画はまだ下種で虐げられた存在で、本屋で漫画を注文すること自体が難しく相手にされない空気感があり、漫画好きの少年にとっては、実際の本屋で現物を見つけ、それを買うしかなかったのです。たぶん今のアニメやアイドルグッズなどもそういった世界なのではないでしょうか?加えて、電車を使えば、電車賃として往復500円~1000円ほどはかかるわけで、そんなお金があれば、好きな漫画本を2~3冊は余分に買いたいという気持ちが勝っていました。
時には途中突然の雨に降られたり、自転車自体にトラブルが発生したりして、このまま夜中まで家にたどり着けるのだろうかと不安に陥ることなどももちろんありましたが、それでも自転車で知らない土地をさまよう行程は大変というよりは未知の世界を自から切り開いていくようなとてもわくわくする楽しい体験でした。普段は電車に乗らない限り絶対にたどり着けないような街まで自分の力で行くということの達成感や恍惚感とともに、素敵でレアな漫画本を手に入れるという実利もあるのですから。
当時は少年キングに連載されていた「サイクル野郎」という日本一周を自転車でするという漫画もあり、わたしもこの体験を生かして、将来サイクル野郎のような漫画を描いてやろうなんて大それたことさえ考えたりしていました。
いま思えば、お笑い種ですが、そんな古き良き思い出を本作は掘削してくれて、満たされた気持ちで、わたしが帰路に着いたのは言うまでもありません。自転車万歳です。
2020年
8月
24日
月
今年はどこにも移動しなかったお盆ですが、そんなお盆明けの夜に本作を体験してきました。
中島みゆき作のタイトルソングが流れる予告編はとても印象的で、これは観に行かないと・・・と思わせるものがあったので、楽しみにしていました。
平成の30年間すべてを通して、大人の事情に翻弄された切ない別れ、成長の過程のなかでの再会、それでもどうにもならないすれ違いを経て、再び巡り合った運命のふたりの物語です。
ふたりが離れている間に彼は結婚し子どもができており、彼女のほうは事業を通して世界に羽ばたきながら、挫折体験を経ており、その末に故郷に足を向けるという後に、運命の巡り合いなるか・・という感じで、ラストはハラハラドキドキさせる展開となっております。
切なくて、恋しくて、儚くて、さまざまな事情、どうにもならない運命や無常に過ぎ行く時間に翻弄されながら、やっと準備が整い、巡り合うというふたりなのですが、彼の妻の死など、ふたりの再会には倫理的には責められることのない、都合のよい事実がうまく起こっていたり、彼女にしても、友人の裏切りから事業に失敗して失意の帰国をするという絶妙のタイミングなどが、やや偶然というスパイスを塗り込んだ物語を作りすぎたかな・・?と感じたりしました。
また運命に翻弄されながらも、過行く時間に自らの意思で抗わず、結局周囲の状況と時間に翻弄されながら、やっとそこにたどり着くというのも悪くないのですが、もう少しふたりの自発的な意思を通した結果としての巡り合いというほうがより感動が深いものになるような気はしましたが、そういうことを考えるわたし自身が人間の意思を重視しすぎで理想主義的すぎるのかもしれません。我ながら困った性分です。
しかし、本作は観る人それぞれのこころの鏡にさまざまな陰影を映しこむこと請け合いであり、わたしにしてもなんだかんだ言ったって、ラストシーンには満足しほっとしながら家路に着いた静かな夏の夜でした。
P.S.本作の主題歌でもありモチーフともなった中島みゆきさんの「糸」。カラオケで日本一多く歌われた年さえあるそうです。さもありなんで、独立した楽曲としても素晴らしく、映画のなかで美しく切なく流れるこの楽曲は情感をそそり、思わずうるっと来ます。さすがの一言でした。
こうなるとみゆきさんの名曲「ファイト」の映像化を期待してしまうのも当然ですが、おそらく「ファイト」は聴く人それぞれの思い入れが強く、すでに各人のこころのなかで映像化されているのではないか・・というぐらい物語性の強い強烈で感動的な楽曲なので、かえって映画化などの物語化は期待しないほうがよいのかもしれません。それでも観てみたい気もどうしてもしてしまう今日この頃です。いずれにせよ、もし映像化されたら、すごい傑作になるか、とんでもない駄作になるかの二つにひとつでしょうね(^^♪。
2020年
8月
08日
土
本作を少しずつ人々の活動も戻りつつある8月に入った夏の暑い夜にひっそり修行してきました。
あのジャック・マイヨールをモデルにした素潜り野郎たちを活写したリュック・ベッソンによる名作「グランブルー」(わたしにとっても生涯の映画5傑のひとつです)を不遜にもひらがなに変更しタイトルとしているので、当然潜りものなんだろうという予測はついていたものの、残念ながら原作漫画も読んでおらず、ほぼ先入観なしの体験となりました。
なぜか船でしかたどり着けない離れ島に存在する大学。場所のイメージとしては、伊豆大島辺りというところでしょうか?そこに楽しいキャンパスライフを夢見て上陸した少年が裸一貫?楽しく激しくしょっぱいサークル生活にのめりこんでいく、めくるめく世界を涙あり、笑いあり、裸(男ばかりです)ありで、大画面いっぱいにおかしく楽しく描かれています。
思い起こせばこんなおっさんになったわたしにも18のころ青白い大学新入生の時期があり、当時入学したばかりの右も左もわからぬキャンパスにおいて、激しく魅惑的な大学サークル勧誘活動を受けていました。もう時効でしょうが、未成年なのにそうした勧誘を通して大酒飲んだことなども思い出したりしました。なかには、サークル活動と思わせて学生運動や宗教団体の勧誘なども当時は多く、おぼこく、うぶ毛もまだ残っていたようなわたし(いまやすっかりこすれまくり、産毛の跡は剛毛にとってかわられていますが)にとっては、毎日が危険でありながらドキドキもしながらキラキラ輝いていた時間でもありました。本作を通してそうした大学時代のサークルの過激さ、恍惚さ、不安感など思い出し、とても懐かしく感じ、観ながら思わず笑顔が出てくるような作品で楽しい時間を過ごさせてもらいました。
本作を観て久々思い出したことですが、やはり明日のことや将来のことなど一切考えずに思い切りバカやれる時間や場所って大事です。わたしにもささやかながらそうした時間が少しはあったような気がします。社会から大学というバリアで隔絶されながら、将来の不安や喧噪、束縛からも猶予され守られていたやわらかでいま思えば夢のような時間でした。そしてそれらの体験と記憶があるから、その後の窮屈な?人生を歩いて行けているとも言えるような気さえします。本作はそんなことを画面いっぱいに楽しくおかしく裸のまま主張していました。
そういえば、わたしも一応 Cカード(ダイビングライセンスのことです)を持っているダイバー(潜りはすっかりご無沙汰しており、いまやおかダイバーですが)です。そんなわたしにして「あ~ひさびさ沖縄の海あたりに潜りたいな~」なんて自然に考える、軽快かつ積極的な作品で、こんなご時世のなか、なんだか前向きな気持ちをもらいました。
2020年
7月
07日
火
相変わらず、自粛的生活を強いられる日々が続いていますが、みなさんは元気にやっていますか?
世間的にはやっとスポーツや映画なども再開となり、徐々に観客が戻ってきており、わたしも人の少ない映画館で細々と映画修行を再開しております。
と言ってもこの間、「Red」「弥生、三月、君を愛した30年」「サイコパス3」「千と千尋の神隠し」「もののけ姫」「AKIRA」などはガラガラの映画館のなかでしっかり映画館修行しておりました。通常では、映画館で鑑賞した作品は必ず、本ブログにて個別に取り挙げており、久々鑑賞した「もののけ姫」や「AKIRA」なでについては特別な感慨が生まれ、文章にしたためたかったのですが、どうもわたしの筆も自粛モードで書き逃してしまいました。もし機会があれば、またいつか書かせてください。
閑話休題。本作ですが、7月に入ったとある夜更けに、T-Joy東広島の大シアター1番シアターで、もったいないぐらい観客が少ないなか鑑賞させてもらいました。
詐欺師コンビとその仲間たちが世界を股にかけて大活躍するシリーズで、今回は舞台が、あの船を乗せているようなホテルが評判のシンガポールでした。
まあ何といっても圧倒的に痛快な作品でした。娯楽としての映画としては満点ではないでしょうか?
わたしはテレビ版は観ておらず、映画だけでFollowしている身なのですが、そうしたことにまったく関係なく、テンポよし、ユーモアよし、伏線よしで、混沌とした物語の流れが最後の最後にさらりと差し込まれるエピソードによって「なるほど~そう来たか!」という感じで、全体がきれいに一回りしたかのごとく繋がり、全体が大きく膨らんだシャボン玉のように物語が完結するありさまは「これこそ映画の醍醐味だよね~」という、映画を見終えた後も思わずにんまりとしてしまうまとまりの良い出来でした。
詐欺師を演ずる長澤さん(以前にも書きましたが、長澤さんは純情、おしとやかな役よりもこうした元気で少し擦れた役が自然でいい感じです)も東出さん(私生活でもいろいろありましたが、まさに人生の詐欺師役です)も堂に入っており、ふたりとも大はまり役で、今後もこのふたりの大活躍を観たいのはわたしだけではないはずです。
ということで、今後もこのシリーズは続くと思いますが、常に必見の作品であり、日本のM.I.シリーズのように続いていけば・・と思う痛快無比な作品で、次は地中海の国々を舞台で、彼らの活躍を観てみたいものです。
2020年
5月
08日
金
2020年のGWは、みなさんもそうだったと思いますが、せっかく休みなのに外出できないという制約のある、まるで軟禁状態下のような人生初の摩訶不思議な日々を過ごしました。
この間、遠くへ出かけることもなく、自宅中心に過ごしていたおかげで、読書がたっぷりできました。・・と言いたいところですが、パソコンのWeb上で、読み逃していた雑誌のエッセイのバックナンバーなどを読んでいたら、気づけば外は暗くなり、夕食をとればいつもよりも早めの就寝で一日が終わってしまうという日々を過ごし、休日はあっという間に終わってしまいました。
もちろん家に長くいたおかげでいくつか決定的に気づくこともあったりましたが・・・。
今年のGWの天候はこんな軟禁状態のなか皮肉にも青空に恵まれましたね。おかげで気温もどんどん上昇し、高温・多湿・紫外線に弱いウイルスもわが広島ではすっかり下火になっていき、ようやく光が差してきたような心持ちにもなってきました。
いつもなら鯉のぼりの季節になれば、夜はビール飲みながらのテレビでのナイター観戦が定番なのですが、試合もなく、テレビのコンテンツは再放送や編集番組が多く、秋でもないのに”春の夜長”に徒然なる思いにふけった日々でした。
この不思議な日々の原因となったコロナウィルス(以下コロナ)についても徒然なるがままに少しだけ考えました。まずコロナはインフルエンザではなく、通常の風邪ウィルスの変型なのですが、ここまで日本において、産業や学校、人々の移動、飲食、公演交流、甲子園大会を含めたスポーツイベントをはじめとしたさまざまな日常の機能を休ませるほどのウィルスだったのだろうか?・・という漠然とした疑問です。
これらの是非は今後、歴史的に検証されていくでしょうから、わたしからどうこう言うことは控えますが、テレビのニュースやワイドショーで気になっていたのは、国民の不安を煽るというスタンスでしか放送していないのでは・・?という印象です。
ひとつだけ例を挙げると、我が国では毎年約1000万人が罹患し、直接および間接的にほぼ一万人の命を奪っているインフルエンザ。冬だけに集中するので、冬の3か月の間にはほぼ毎日全国で100人の死者を出しているインフルエンザ。わが街でも毎年普通に死者を生み出すインフルエンザ。・・・それに対して、現時点(2月~4月の3か月)で全国レベルでいまだ1000人の命も奪っていないコロナ。
このインフルエンザの数字を番組において客観的に提示するだけで、「なんだ毎日100人も死者を出す毎年のインフルエンザの方がよほど怖いじゃない⁈これなら毎年インフルエンザを乗り切っているのだからさほど過剰に恐れることはないのでは・・」という感じで、国民は不安ばかりにこころを揺さぶられずにまずまず安心できるのに、まったくそれらの事実を伏せるかのように伝えず、不安ばかりを煽り続けるメディア。
人々のこころに沸き起こるこれらの不安はウィルスを倒すはずの免疫力の低下まで引き起こすので、かえってコロナの思うつぼ?でいったい何を考えているのだろうと思わざるを得ません。
こうした一連のテレビを代表としたメディアの報道の仕方に悪意さえ感じてしまうのはわたしだけでしょうか?
まあいずれにしても、こうしたStrange Daysのなか、自分には目の前にあるやるべきことを粛々としていくしかないわけで、前を向いてしっかり歩いていこうとあらためて思ったりしています。
みなさんも、メディアの不安惹起の罠にはまって免疫力を低下させないよう、前向きなこころを見失わず、ときには太陽光を浴びたウォーキングなどをして、心身を鍛えながらこのコロナ渦を乗り越えていきましょう。
2020年
4月
08日
水
毎年のことながら、お釈迦様の誕生日であるこの日4月8日に四季のこころクリニックも誕生日を迎えました。
無事満7年を迎えれたのは、地域の皆さんや縁のあった皆さんのおかげでもあり、感謝に堪えません。ありがとうございます。
ちなみにお釈迦様の誕生日と同日というのは狙ったわけではなくまったくの偶然です。ただ「8」という数になぜか昔から縁があり、わたし自身好きな数でもあり、せっかくだからと8日を開院日としたら、これが素晴らしく縁起のよい日だったというわけです。
この際ですから少しだけ日にちと数字にまつわる不思議な縁を語りますと、クリニックの電話番号は082-421-8848ですが、これも縁起の良いいい並びで「4」と「8」が入っていますよね。これも希望指定したわけではなく、クリニックに電話を引くときに、NTTでこの番号のなかから選んでくださいと言われた20ほどの候補のなかに入っており、まさに選んでくれと言わんばかりに、光の矢のごとく目に飛び込んできたため開院時に選んだのですが、当時我ながらびっくりしたものです。実はこの後さらに奇跡のようなことが続くのですが、たかが数にこだわりすぎるのもなんだかね~という感じに受け取られるでしょうからこれぐらいにさせてください。
閑話休題・・・。クリニックは明日から8年目の旅の道に入ります。最近、クリニックでの診療はさまざまな人との出会いの旅のような気がしています。さまざまな季節を越えて少し疲れた旅人が扉をときどきノックしてくれる場所が当院であれたら…なんて夢想したりしています。
いずれにせよ今後も初心を忘れず、こころや神経に病が訪れ困られている方に、医療を通して力になれるよう微力ながらも、誠実に親切に明るく取りんでいく所存です。今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。
P.S.毎年この時期になる度に温かい心配りをしてくださっている方々にこの場を借りてお礼を言わせてください。いつも見守ってくださりありがとうございます。これからも頑張っていきます。
2020年
4月
03日
金
本作をいよいよ妙な病原体の脅威に翻弄され始めた世間を尻目にひっそりとT-Joy東広島で鑑賞してきました。案の定、広いシアターにはわたしを含め、観客はたったのふたりの貸し切り状態でした。
元は飼い犬であった雑犬バックが、ひょんなことから犬売人にさらわれ、その後波乱万丈の人生(犬生?)を送りながら、成長していき、最期は心が通じ合う老人とともに山と自然と同化していくという物語です。
興味深いのは、人間の成長物語なら、成長に連れて、都会に出ていく感じなのですが、犬の場合、その逆でどんどん人間世界から離れて野生に戻っていくという点です。
こうした展開は、原作のジャック・ロンドンに限らず、ホイットマンやマーク・トウェインといったアメリカの生んだ国民作家には共通に見られる要素であり、アメリカ文学には、文明社会に対する疑念とともに大自然に対する畏敬の念、自然と人間の共存への憧憬がそこかしこに溢れています。
音楽面でも、文明社会に背を向け列車の屋根に乗って各地を旅するホーボーとして歌を作ったウディ・ガスリーは言うに及ばず、いまやアメリカの国民歌手となったボブ・ディランにしてもそうした面は明らかにうかがえます。
最近はIT社会をけん引し、ありとあらゆる情報と物質で世界を蹂躙するかのようなアメリカですが、本作を通して、「アメリカ人の心の源泉である野生への回帰を忘れてはいけないよ」とディズニーが警鐘を鳴らしているような気がしました。
21世紀に入り、再び世界の覇権を中国と争っているアメリカ。いま世界はアメリカがこの数十年声高らかに推奨し推し進めてきたグローバリズムの必然的な帰結と言うべき病原体の蔓延に翻弄されている真っ最中です。こうした古き良き素晴らしいアメリカンスピリットを現大統領にも思い出してもらいたいものです。
グローバリズムという境界なしの人や物の行き来きが生み出してしまう、終わりなき経済競争や生存闘争から勇気をもって降りて、我々は世界での成功や物質的栄華を遮二無二目指すことなく、自国を中心に平穏に暮らし、少々経済効率が劣っても様々な必需品(マスクをはじめとした医療品や農産品等々)を自給自足して、むやみに他国に依存せず(できれば軍事防衛力も)、まっとうで普通な人としての道を歩んでいくときが来ているのだよ・・・と、その病原体は我々愚かな人類に対して、世界じゅうに聞こえるように高らかに警鐘を打ち鳴らし、これから人類が歩んでいくべき道を親切にも照らしてくれていると感じるのはわたしだけでしょうか?
2020年
3月
20日
金
本作をT-Joy東広島にて、春の夜に鑑賞してきました。もう9年前になる、日本のみならず、地球にとっての大惨事となった福島第一原発で当時現地で奮闘した50人を描くドキュメント映画です。
観終わって、事実であることが今でも夢であってほしいと思ってしまうような悲惨で混沌としていた出来事をよく再現していると思いました。角田隆将さん(「なぜ君は絶望と闘えたのか」を始めとして素晴らしい仕事を常にされており、いつも気になる作家のひとりです)の原作も素晴らしいのだと思われます。
吉田所長(この直後、癌を患い既に亡くなられていますが、まるで日露戦争の勝利のために精も根も使い果たし、終戦2年後に急逝した英雄・児玉源太郎を思い出すのはわたしだけでしょうか?)の命をかけた大奮闘をはじめ、所員らの命を惜しまないほどの闘いが素晴らしい臨場感のある迫力十分の映像とともに展開されていました。日本人なら一度は観ておくべき映画と思われます。
いつも原発について考えされられるのは、東日本大地震の津波は東京電力にとって想定外の高さだったということですが、本当にそうでしょうか?もしかしたら、経費削減のために、堤防や立地の高さを十分でない状態で建設していたのではないか?という疑問がどうしても残ってしまいます。同じような津波が襲った宮城の女川原発はほぼ無傷だっただけに余計にそれは気になってしまいます。
いずれにせよ人類は原子力というパンドラの箱を開けてしまっており、地球さえ壊すほどの危険性を持つ道具であることは重々承知のはずで、想定外なんてことはあってはならぬ事態で二度と福島原発事故のような事件が起こらぬことを祈るしかありません。
個人的には原発に頼らない道が人類の歩むべき道だと思いますが、現実にはすぐには無理でしょうから、そうであれば、二度と想定外・・なんて言葉が出ないように、今後も原子力を管理していく運命に人類は相対しているのだという当たり前のことを本作によって改めて心に刻んだ夜となりました。
2020年
3月
10日
火
春にしてはまだ寒い月曜日の夜、T-Joy東広島にて本作を鑑賞してきました。1939年の「オズの魔法使い」、1954年の「スタア誕生」といった傑作ミュージカル映画の主演女優で、英米で今も猛烈な人気があるジュディ・ガーランドの最期の日々を描いた音楽伝記映画です。
「ボヘミアンラプソディー」の大ヒット以後「ロケットマン」といい本作といい、ミュージシャン映画が製作されており、個人的には大変喜ばしい限りです。
ジュディ・ガーランド・・・名前は聞いたことがあるものの、恥ずかしながらどんな女優か全然知らない状態で、本作に臨むことになりました。
若い頃から才能を見出されたものの、その才能故に映画会社から太らないようにと薬漬けにされながら、歌手としての人生の輝きを47歳で果てる最期の時まで追い続けたジュディの人生が、人生最晩年のロンドン公演を中心に描かれています。
舞台の上で輝く才能の光と、ドラッグや借金、三度にもわたる離婚問題にまみれたドロドロの私生活の影。この陰影が映画を縁取りながら、ラストに彼女にとっての最期になるであろう優しく熱い歌唱「オーバーザレインボー」に辿り着き、彼女の人生が集約されます。歌うという行為によって、人生の光と闇を鮮やかに表現することができた希有な才能の最期の光が本作のクライマックスであり、その最期の歌唱であるステージシーンには圧倒されます。歌詞の内容も彼女の人生の彼方を示唆しているようで、思わず泣けてきます。
もちろんこの歌に至るまでのハチャメチャな人生道程があればこそ、最後の歌唱が瓦礫のなかで輝く金の指輪のように、稀有なきらめきを放つわけでですが、常人離れした表現、混沌とした生活、それでも光り輝く魂・・・これらの清濁混じるさまざまな要素を組み合わせ、ついには芸術的昇華を達成し、まるで自らの人生をそれらと心中させるかのような天才たちの営みは、世界の至るところで、ときに美しく儚く存在しており、本作を観終わった後にはそんな人たちのことを思い出す人も多いのでは?と思ったりしました。
わたしにとっては、たった26歳で夭逝した表現者・尾崎豊です。彼のライブにはデビュー時の名古屋の芸術創造センターでのFirst Live Concert Tourから亡くなる直前のBirth Tour(広島グリーンアリーナ)まで、広島はもちろん名古屋でも大阪でも全国津々浦々と出かけ(それにしても当時は嘘のように有り余る時間がありました)、通算6回ほどは参加できましたが、常にステージですべてを燃焼させ、精も根も燃やし尽くすような熱い表現でした。
特に数週間後にドラッグで逮捕されることになる四日市公演(Trees Lining A Street Tour)の凄まじさは今も我が人生のベストライブのひとつです。すでに2回のアンコールも終わりステージの片づけが始まり、客電(会場の照明)も全て点灯し、帰っていこうとする観客に向かって再びステージ中央に滑りこむように飛び出してきて、「まだ終わりだなんて誰も言ってないぜ・・」とつぶやき、ひとりピアノに向かい、まるでグレン・グールドのように背中を折り鍵盤にうつぶせるようにして何かを探すような鋭い目で見えない敵をにらむように歌い続ける汗だくのTシャツ一枚の彼の姿・・・。今までさまざまな場所でさまざまなアーティストのライブを経験しましたが、後にも先にも初めての体験でした。あの日の彼のエネルギーの残照がまだ自分のこころの奥にチロチロ燃えているのではと思うことさえ今でもあるほど強烈な体験でした。(たとえそれが覚せい剤のなせる業であったとしても、その夜の彼のエネルギーのスパークと彼の背中をまっすぐに突き刺すオーラのような白い真っすぐな光は、この先こんな場面にもう二度と会えないのではないか・・という不安と恍惚を感じさせるほどの眩いばかりのきらめきを放っていました)あたかも彼のライブは参加したすべての悩み多き若者たちに生きていく勇気を与えているかのようでした。
しかし、私生活のレベルでは、その尾崎も燃やし尽くした後の反動はかなり大きかったのではないかと今更ながらに思い出したりしました。
彼らが表現してくれた「短く花火のように輝き、燃え尽きる人生」に感謝し畏敬の念を抱きながら、もう彼らが生きた年月を越えてしまった情けない自分のことはさておき、能天気なわたしは帰路思わず「 Somewhere ~Over The Rainbow,Way Up High ~ 」なんて口ずさみながら、ウィルスの足音が聞こえるような漆黒の夜を車で駆け抜けていきました。
2020年
3月
06日
金
3月のはじめ、妙なウィルスの影を感じながら、子どものときから折に触れて、観て感じてきた本作9作目を楽しみにしながら鑑賞してきました。
聞くところによると、これがスターウォーズサーガの最終話であるとのこと。ベートーベンで言えば、交響曲第9番。いよいよオーラスです。
観終わって思ったのは、壮大な物語というのはだいたいこのように終わるものという典型であるような気がしました。初代から数えて、3世代目でひとつの区切りがつき、希望のある未来に向かって先代の意思を受け継ぎながら、次世代の勇敢なる人たちがさらなる一歩を進めていくという感じです。
3代にわたる家族の興亡史というのは、人類の文学史のなかでは非常に伝統的であり、スターウォーズもそれをしっかり踏襲しており、40数年前に登場したときは、サブカルチャー世界から発信された本作が時を経て、メインカルチャーになったという感慨もあったりしました。
それにしても、40年前に登場したときは映像にしても提示する世界観、音楽、スピード等々・・当時としては圧倒的で衝撃的でありました。その物語が21世紀まで継続するなんて思いもしなかったですが、気づけば年の過ぎるのはあっという間であり、少年だったわたしもすっかり年をとり、いいおやじになってしまったわけで、本作を観て時の流れを噛み締めるいい機会になりました。
2020年
2月
29日
土
本作をアカデミー賞作品賞を受けて、大シアター1番シアターで大々的に上映する技に出たT-JOY東広島にて修行してきました。
なんといっても、カンヌのパルムドールとの同時受賞です。これは映画ファンとして見ないわけにはいかず、さっそく修行に行ったという次第です。
観終わって思ったのは、社会的批判も織り交ぜながら、半地下生活の詐欺師一家の活躍は笑いがこみ上げるような軽妙さ、そして最後にはスピード感を伴ったカタストロフィーが待っているという、怒りもあり、ユーモアもあり、不条理もあるという痛快な作品で、あっという間に時間がたつ映画でした。
本作の根底に流れる社会批判的要素は、本ブログでも以前取り上げた「アス」「万引き家族」と完全にシンクロしており、こうした格差社会への異議申し立てという要素は世界のどこでも共通していることなんだという認識を新たにしました。
一方で、半地下の悲惨な家という舞台(すべてセットだそうですが、素晴らしい構築力です)は北朝鮮対策も兼ねた韓国独特の文化であり、高台の豪邸(これも完全なセット)がうっとりするほど素敵であり、こうした格差を理屈でなく、圧倒的な映像で表現されており、監督の技巧の高さも強く感じさせるものでした。
加えて、人や建物が発する臭いと人間の生理的反応とモールス信号も隠し味として、小気味いいぐらいスパイスのように効いており、作品全体として奥深い作品にもなっています。
しかし、それでもパルムドールとアカデミー賞の同時受賞についは、正直違和感を覚えました。確かにさまざまな要素が入りまくりながら、軽妙な笑いやユーモアも忘れず、ラストに向かっていく飽きさせない構成は素晴らしく傑作には違いないです。それでもカンヌはともかくアカデミーまで獲るとは・・・。最近のアカデミー賞の社会派映画への偏向をまたまた感じざるを得ません。
ここのところ、カンヌにしてもアカデミーにしても、「万引き家族」もそうでしたが、エキセントリックな不条理世界に強く共感する傾向にあり、今年もそれが強く出すぎているような感慨を持ちました。これも現実社会への映画界からのメッセージととらえるべきなのかもしれませんが・・・。
ちなみにおそらく本作のクライマックスと言えるラストシーン周辺についてですが、「アス」をすでに観ているせいか、最後はカタストロフィー的展開になるのでは?という予測可能なものでしたが、皆さんはどうでした?
もしや「アス」の影響ではなく、わたし自身がもともと内面レベルでアンダーグラウンド好きな半地下生活的心性を持っているので、ラストシーンも含めて、普通に違和感なく受け入れ予測してしまったのかもしれず、ここら辺については、いつか本作を観た友人とゆっくり議論してみたいな~と本文を書きながら痛切に望んでいる自分がいたりします。
なんやかんや言っても本作はやはり映画館で観ておかなければ始まらない作品であり、本作を観た感想や感慨や考察などを肴にお酒でも飲んでみたいので、ぜひとも映画館で体験されてください。いずれにせよ、そういう想いに至るという時点でやはり本作は傑作なのでしょうね(笑)。
2020年
2月
14日
金
本作を春を感じさせるような暖かな冬の夜に、T-JOY東広島にて鑑賞してきました。
待望の岩井俊二監督作品です。すべての映画監督のなかでも、独特の映像や音像の美学、美しくロマンティックな物語を常に作品を通して提供してくれています。べた褒めですが、古いブログを読んでくださった方ならお気づきのようにわたしは大の岩井俊二ファンであり、20代で岩井監督の作品に出会い衝撃を受け、その映像世界に刮目させられたことが今も映画を観続けているエネルギーのひとつともいえ、一度もお会いしたことはありませんが、映画界のこころのメンターとも言えます。(ちなみに10代のときは尾道出身の大林宣彦監督です)
タイトルからして、あの名作「ラブレター」との関連も思わせ、実際に豊川悦司&中山美穂のコンビも本作にちらりと顔を出しており、他の出演者らの顔ぶれも岩井監督の作品ではよく見てきた顔ぶれであり、まるで集大成のような作品なのかな?という印象さえ持っての修行と相成りました。
さて観終わった感想ですが、監督独特の情緒あふれる映像は相変わらずで、今回は監督の故郷である宮城を初めてロケ地としており、セットはほとんど使っていないようで、いったいこれは宮城のどこで撮ったのだろうなんていう興味も沸かせるものでした。
遠くに過ぎ去った過去の美しい想い出、無邪気な恋心、現在まで続く恋慕と悔恨、すれ違った想い、成就できなかった想い・・等々を行き交う何通かの手紙を通して繋ぐ。そして最後に封を切られなかった手紙に辿り着く。なんというロマンティシズム。久々だな~この感じ。
映画を観終わった後、遠くに過ぎ去った高校時代の恋心を掘り起こされ、監督から「ねぇ、きみたちにもこんな純粋で遥かに続くような恋心があったはずだよ。。忘れてしまっていないかい?」と問いかけられているような声が幻聴のように聞こえました。
しかし一方で気になったことはせっかくの1番シアターでの上映だったにも関わらず、観客は10人に満たない入りでした。わたしのような岩井監督ファンならば、うっとり楽しめるでしょうが、本作は微妙に作品世界が現代と乖離しており、かつての名作「ラブレター」ほど誰にも伝わるレベルの普遍的な美しい完全な出来ではないということにも気づかざるを得ず、監督の自作を否応なしに期待したいとも思いながら、春の訪れが近づいていることを感じながら、月夜の下、帰路に着きました。
2020年
2月
10日
月
本作を2月に入った夜にT-JOY東広島にて修行してきました。独特な映画的創作世界を見せる周防監督の新作です。
本作は大正時代に実際にあった活動弁士という仕事を通して、刑事に追われながらも徐々に成長していく青年の物語になっています。
主演の成田凌さんが主人公の俊太郎に見事にシンクロしており、物語の最後には彼自身が見事なカツベンぶりを身に着け発揮するにつけ、拍手を送りたくなるような作品になっています。
その過程のなかで、幼馴染の初恋の女性も失い、劇場も火事で焼け、カツベンの仕事も失い、刑事にもしょっぴかれ、主人公は一旦全てを失いなにもなくなってしまいます。人生は甘い蜜もありながら現実はとても厳しい・・・ということをさりげなく銀幕を通して若者に喝を送っているところなどさすが周防監督だと思いました。
あわせて,大正時代、おそらくまだ国も貧しく誰もが未来に向けて不安を持ちながら、落ち着かない気持ちで必死にモボやモガたちが生きていた時代の空気感の映像化、音像化もさすがの周防監督の魔法がそこはかとなく漂っている作品でした。
観るものはゼロになった俊太郎が未来に向けて歩んでいくことを確信しており、「人間には大好きで賭けるものさえあれば、どこでだって生きていける」というような監督からの励ましをもらってような気がして、いい歳をとったわたしなどもいつもより少し元気になって、映画館を後にしました。
2020年
2月
01日
土
本作を例年より暖かな冬の夜に、わが街の映画館T-JOY東広島にて修行してきました。
あの言わずと知れた1980年上映の名作ホラー映画「シャイニング」の続編です。原作小説はスタンリー・キューブリックにより大胆に改編され、原作者スティーブン・キングからは「あの映画はホラーのなんたるかがまったくわかっていない」と大顰蹙と憤慨を買ったという前作ですが、それゆえにキューブリック印の複雑で痛快な恐怖作品ながら、主人公のジャック自体いったい何者なのかという、謎の多い、奥深い作品となり、映画好きなら知らぬ人がいないほどの金字塔となっています。
さて本作ですが、前作で残された遺児ダニーが成長して、あの忌まわしきオーバールックホテルを再訪し、そこで再び邪悪なものと対決するという物語になっています。本作の細部には、前作の構図の再現や隠し芸が多いということはなんとなく感じましたが、これは前作を見ていなければ、なかなか伝わりにくく、わたしにしても前作を見てから30年以上たってしまっており、DVDで前作を復習しておけばよかったという感慨を持ちました。
しかし前作を忘れていても、大人になったダニーの過去のトラウマの克服および魂の再生物語とみれば、十分に楽しめるようになっており、邪悪なものとの闘いはスリルたっぷりの手に汗握る展開となっており、ホラーというよりは痛快活劇を観たような気分になりました。あえて言えば、ジャックニコルソン演ずるジャックの再登場が欲しかったですが、おそらくその出演料は映画の制作予算にかなり響くので難しいかな~なんて思いながら、ダニーの魂の再生を見届けて、心晴れやか気分で帰路に着きました。
2020年
1月
15日
水
大変遅まきながら、そろそろ上映終了となるような時期にやっと本作との迎合がかないました。
元々小説として傑作であることをわたしの古い友人から聞いており、小説もすでに買っていたのですが、この間私的有事が重なり、原作もなかなか読めず、結局映画体験も終映間近にやっと間に合ったという状況になってしまいました。
いま役者としても油が乗り切った福山雅治さんと石田ゆり子さんのダブル主演というのも楽しみな本作です。
見終わって感じたのは、本作は映画だけでは完結しないのだろう・・・という確信に近い想いでした。映画だけでは、蒔野が洋子にたった一度の迎合であそこまでの想いに陥るとは思えず、婚約者がいた洋子がそれを捨て蒔野に走るという心情もおそらく原作の文章では、その心象が精緻に描写され、読むものに説得力を与えているのだろうと思ったからです。(実際にその後原作を読んだのですが、ほぼ予測は当たっており、ふたりをはじめとする登場人物の心象描写の洪水のような作品でした)
人間の運命というのは不思議なもので、本来ともに交わり人生を歩んでいくはずのふたりが、ほんのささいな横やりやすれ違いによって離れていくことは、実際の人生でもよくあることです。わたしにも、ここまでドラマチックな出会いと別れではないにせよ、少し覚えのある体験です。おそらく原作の大ヒットは誰もが体験するかもしれない運命の人たちのすれ違いや別れ、喪失感に対する魂の共鳴が多くの要因だったのでは・・・?なんて思いました。
いい映画は自分のこころの奥にしまわれたさまざまな記憶や想いに光を当て賦活してくれます。そのことを久々思い出させてもらった作品でした。
最後に本作の救われるところは、この先の時間のなかで蒔野と洋子がすれ違いの時間を乗り越えて、新たな未来を紡いでいくのでは・・という想いを抱かせるところであり、現実の人生もこうであったら、なんと魅惑的で素晴らしいことだろうなんて、祈りのような厳かな気持ちで映画館を後にしました。
2020年
1月
08日
水
新年明けましておめでとうごさいます。
わたしの方は、今年も年末31日から新年3日まで無事地元愛知への帰省を楽しんできました。毎年のことながら単独での帰省なので、この時期はまるで故郷に単身帰省する大学生の頃に戻った気分になります。
長躯450キロほどの道のりをゆうらりドライブして帰ると、そこではとても楽しみな会が待っています。それはすでに学生時代から足掛け20年以上も毎年続いている、元日の深夜遅くまで飲み続けた挙句にそのまま初もうでにでかけるという小中学校時代の仲良しが集まる正月会です。その会では一年に一度しか会えない友人らと今年も元日の深夜に無事年を越えて出会えたという安心感や労いの笑顔が弾みながら、とりとめもない話を美味しい食事とお酒をいただきながら、あっという間に時間が過ぎ去ります。
年末年始のこの期間には正月会の他にも、地元の長島スパーランドやなばなの里イルミネーション(口絵の写真)や地元イオンやアウトレットモールなどの初売り、寿がきやラーメンをはじめとする地元グルメ巡りなどを家族と回りながらゆっくりと過ごします。毎年同じようなことをしており、よく飽きないものだ・・と我ながら思いますが、この4日間を通して実は人生の楽しい時間の縮図を濃厚時短で過ごし、魂の浄化を図っているのではないだろうか・・と最近は思ったりしています。
友達との会話、未来への祈り、美味しい食事、癒される空間、懐かしい目に馴染んだ風景、楽しい移動の時間、お得な買い物・・等々が実質3日余りの時間のなかにぎっしり詰まっているのです。
そんな濃厚な年末年始を過ごして、1月3日には再び自家用車で6時間ほどかけて広島に戻り、翌1月4日から今年の初診察を行いました。土曜日であり、この土曜日という日は仕事をされている方が多く受診され、いつも忙しく、診察が終わった後には疲れを感じることがときにあるのですが、この日はほとんど疲れなく、すっきりした気持ちで診察を終えることができました。おそらく正月における心のデトックスのおかげだと思い、ありがたく濃厚な時間とともに友人らの顔、馴染んだ街や国道、駅前の風景、柔らかな冬の陽光、きりりとした冬の空気の感触を思い出したりしました。
そして新たなる令和2年が始まりましたが、今年は何と言っても我が国にとっては56年ぶりのビッグイベント東京五輪もあります。それらもしっかり楽しみではありますが、何よりも来年正月に笑顔で故郷の友人らと再会できるよう、何事にも積極的な心で取り組み、魂の成長と深化を図りながら、日々生活や仕事を通じて精進していく決意を新たにしています。
今年も四季の心クリニックともどもよろしくお願い申しあげます。
2019年
12月
27日
金
本作を年の押し迫った寒い夜に、T-JOY東広島にて鑑賞してきました。実在する全盲の歌手アンドレア・ボチェッリのライフストーリーです。
こういった芸術家の人生を表現する作品は、広島市内にあるサロシネが得意とする分野であり、わが東広島にて本作が上映されるというのは、結構世界的にヒットしており、かなりポピュラーな作品なんだろうな~という憶測をもとにしての修行となりました。
幼いころに体質と事故が重なり、ほぼ全盲になってしまったボチェッリ。しかし、彼自身の眠る才能と音楽への強い憧れと想いが彼を素晴らしいオペラ歌手に導くまでの物語となっています。途中あきらめかけたときに、妻をはじめとする家族の励まし、彼の才能を信じる厳しい声楽の先生らが、アンドレアを後押しし、結局彼は大きなチャンス(イタリアのロックスターにチャンスを与えられるというのが嘘のようなホントの話です)をつかんでいきます。現存するレジェンドの半生を描いた佳作となっています。まるで作り話のような本当の話であり、素晴らしいオペラのコンサートシーンもあり、世界的にも受け入れられるのも当然の作品でした。
個人的にさすがだな~と感じたのは、幼少時からの全盲にも関わらず、大学法学部を卒業し、法律家として一時期働いていたことです。目が見えないというのは、おそらく手足がないことよりもハンデとしては大きく、わが国でこうした人の存在を寡聞にして知りません。これは本人の努力もですが、家族の支え、社会の理解協力がなければ、なかなかできないことです。イタリア・トスカーナ地方の素朴な自然のなかに流れる美しい音楽とともに、奥深い社会的資源の存在も感じたりし、寒い季節にこころを温めて帰宅することができた作品でした。
ジャンルを問わず、美しい音楽やイタリア好きには必見の作品でした。