劇場版「進撃の巨人」完結編 THE LAST ATTACK

本作を歳の押し迫った12月の休日にT-Joy東広島にて鑑賞してきました。 わたしにとってはついにこの時が来たのかという感慨深い鑑賞体験となります。

 

というのも本作の原作である漫画版については、当初月刊少年マガジンという普段読まない雑誌での連載でもあり、印象的な巨人のポスターを本屋などでときどき見かけるな~という程度の印象でした。 その後ちょうど偶然にも実写版の映画化を観たこと(当時本ブログにおいてもその所感を書きました)、また近所のフックオフで既刊15巻ぐらいまでのセット売りのディスカウントをしていたこともあり、思い切って大人買いし読んでみたのですが、10巻まで読んだ時点では同じ巨人化をモチーフにした手塚治虫先生作の「ビッグX」程度の標準的なSFと思っていたところが、10巻を越えて、エルディア国だけでなくマーレ国の物語が始まって以降、複数の民族と国の物語が複雑で重層的に折り重なり、互いの国に生きる人々の歴史や当事者国のアイデンティティを揺るがすような展開になってきます。 またその設定がギリギリ精緻であり、哲学的苦悩が漫画で表現されており、諌山創先生はまだ30代という若さでなぜこのような不条理かつ哲学的設定を生み出したのか?・・いったい何者なんだろう?・・とよく考えたりしました。

 

また原作のラストとテレビ版ラストは微妙に表現が異なっており、劇場版ははてさてどうなっているのだろう?といった興味もありました。

 

無事観終わっていま思うのは、今回の劇場版は原作に忠実ながらも「解題」ともいえるほどわかりやすい表現となっており、とくに「なぜ主人公エレンが人類の大半の命を奪うことになる地ならしをあえて断行したか?」という疑問に対する答えがさらにわかりやすくなっていました。

 

あえて自分の命と引き換えに永遠に続く人類の巨人化による引き起こされてきた悲劇の歴史を終わらせたということがこれでもかというぐらい大画面に主張されていました。 ここまですっきり終わらせなくても十分に素晴らしい作品なのですが、よくぞここまで潔い結末を提示したことにも諌山先生の覚悟を感じたりしました。

 

ちょっと大げさかもしれませんが、漫画という表現は今までトルストイの次元だったとすれば、本作の登場をもって、ドストエフスキーの次元までより哲学的かつ形而上学的な高みに押し上げられた・・・ような気がしたと感じたのはわたしだけでしょうか?

この文章を読まれて、本作に興味を持たれた方はぜひ漫画の原作版を読んでみてから劇場版を観てみられてください。 結構ぐっと来ること間違いなしです。 そしていつか秘密のカフェにて本作のことを朝まで語り明かしたいものですね。