怪物

本作を梅雨のうっとしい雨が降りしきる夜にT-Joy東広島にて観てきました。

 

「怪物だ~れだっ?」というセリフを抱いた印象的な予告編とともに、小津安二郎的文学的映画体験を現代に創作できる、是枝裕和監督による新作でもあり、個人的に必見の作品でした。

 

こころにぽっかりと開いている夜の穴のような存在の諏訪湖に臨む街の片隅、子ども同士のけんかに端を発した教室での他愛もない事件が、さまざまな怪物的人物の言動により、徐々に大きくなっていき、当事者である小5の生徒、その母親、級友、担任、校長たちの日常を破壊し人生さえも変革していってしまう・・という恐怖感とともに否応なしに強く興味をそそる物語。 そしてその事件に携わったそれぞれの人物の立場から、事件が現場検証されるかのように事件の前後の時間を行ったり来たりしながら、事件とそれをめぐる人々の内面と日々の行動が重層的に表現されていきます。

 

この手法はかつての黒沢監督による「羅生門」的手法とも言えますが、わたしにとっては、ジャンルが異なる漫画なのですが、竹宮恵子「変奏曲」的手法と呼びたいと思います。

 

異なる文化や国、家族背景を背負い、偶然に出会いながら、それぞれ音楽という魂を捧げる対象を通して、かけがえのない共有された時間をそれぞれの登場人物の立場から重層的に表現された物語は当時まだ十代だったわたしのこころの奥底にぐさりぐさりと強烈に突き刺さり、「一見偶然に発生する事象や人の迎合には常にそれぞれの必然性と異なる視点が複数同時に存在し、光のプリズムのごとくそれら光の交錯により一瞬のきらめきがときに発生することがあり、それら残光の連続が人生を彩っていくものなのだ」・・という言葉にすれば、何てことなさそうながら、そんな人生観というか哲学というべきか、その未完ながら壮大な物語を通して、言外に感じさせてくれた作品が「変奏曲」であり、その後のわたしの人生に大きく影響を与えてくれたことは言うまでもありません。

 

本作「怪物」は映画ながら、久々に十代のころの「変奏曲」体験を思い出させてくれました。 それぞれの立場からのファンタジー(客観的事実を越えた、当事者にとってそう感じられたり、そう映ったり、そう体験したという想い込みと勘違いを伴う主観的体験)と言える万華鏡的観方を通して、事実を表現していくとそこに関わる人々はすべて怪物のごとくふるまい怪物になっていく・・・というファンタジーをわたし自身感じながら映画館でゾクゾクするような時間を過ごさせてもらいました。まさに映画的カタルシスの嵐です。

 

そのなかで、さすが是枝監督とうならせたのは、そうした大人を中心としたファンタジー的体験の混沌の嵐からの隠れ場所として、子どもたちだけのパラダイスをそっと添えてくれたことです。トンネルを抜けた誰も踏み入れない山の中に佇む「銀河鉄道の夜」から抜け出てきたような電車の廃墟。そのなかに作られていく子どもだけの夢の聖域。 大人には絶対に踏み込まれない世界がそこにはあります。わたしに限らず、子どもの頃にそうした聖域を隠し持っていた人たちのこころを鷲づかみにする映画的幻想シーンが映画のなかに散りばめられており、本作の大きな魅力のひとつになっています。

 

基本的にイノセントでありながら残酷なまでに気まぐれで率直なこども時代の揺れ動くこころや感性。ときにはひとを傷つけるようなひどい嘘や移り気もそこにはあります。 そんな怪物ともいえる子どものこころや感性が投入されたこの秘密の隠れ場所にはぐっと来るものがありました。誰もがいまもこころにその隠れ場所の欠片を抱えながら生きていることをいまさらながらに思い起こさせてくれた、まさに至福の映画体験時間でした。

 

ラストで子どもらの魂は山や光の風景を抜けてどこかへ旅立っていくというイメージが提出されますが、子どものこころを捨てずにどこまでもその魂たちがまた次の世界へ元気に進んでいってほしいと願うとともに、よく考えてみれば、本作を観る我々の現在の魂のありようこそが本作に登場してきた子どもの魂が変転(メタモルフォーゼ)した成れの果てであるのではないか?・・・というわたしなりのファンタジーを抱いての帰路となりました。

 

まだまだ観る人の数だけ切り口や語り口が存在する作品である本作は映画館的幻想体験の醍醐味を凝縮したような作品であり、映像幻影文学としての是枝節がしっかりとしみ込んだ快作でした。 カンヌ国際映画脚本賞をとるのも納得であり、ぜひみなさんも映画館にて魅惑の映画的ファンタジー体験をしてみてくださいね。