5年に一度、オリンピックより頻度の少ない小学校のクラス会が終わってはやひと月ほどたちます。
わたしのクリニックブログは意外に古い友人らも読んでくださっていて、前回のクラス会についてのブログアップのあと、それを読んでくれた広島ゆかりの友人から、いつかわたしが故郷に戻りたいと念願しているのでは・・?との感想を持ったとメールにていただきました。
それについて今日は徒然なるがままに書いてみようと思います。
まずは結論から書くと、わたしは二度と愛知に戻って定住することはないです。もちろん正月ぐらいはさすがに帰省したり、5年に一度のクラス会に歓んで出席しますが、それだけです。
いくつか理由があるのですが、最も大きな理由は広島という土地や風土や人たちが、かけがえのないものとして、30年間にわたしの魂に沁みついてしまったからです。30年以上前に最初広島に住み始めたときは、千田町の下宿で黄色く光る裸電球の下、薄いふとん(最初の一か月は寝袋でした)にくるまれて木の天井の年輪や染みを見つめながら、「早く医者になって名古屋に帰りたい」と毎晩のように涙を流さんばかりに願っていたのだから不思議なものです。
大きかったのは、何と言っても人との出会いでした。いろいろな広島人が医学生であるだけの何の資格もなく何者でもない夢だけを抱えた小さな存在をあたたかく受け入れ助けてくれました。愛知にいたときは、常に背後に家や親戚や地縁、血縁というしがらみに近いものを感じながら、高い生産力を持つ風土独特の競争原理の下、それなりに努力し切磋琢磨しなんとかサバイバルしていた自分は、(周りの人にはそう見えてなかったとは思いますが)笑顔の下で傷だらけでボロボロになった魂と大きな不安で満たされた心を抱えていました。そうした経過を経て、先の見えない苦しい状況の打開策として念願の医学生となり、やっと広島に辿り着きました。文字通り仕送りゼロの広島生活の始まりでした。
そんな何もなく裸同然の自分なのに、下宿(風呂なし共同トイレでしたが、広島市中区の中心地で家賃なんと1万2千円でした)の大家さん家族らをはじめ、あまりにも多くてここではあげきれない人たちが助けてくださり、そんな人らの物心両面(とくに食事面ではいろいろな家でお呼ばれにあずかり、まさに飼い主不定の野良犬状態でしたが、そこかしこで食事をしながら楽しく団欒した時間は今も心の宝になっています)にわたるサポートがなければ、すぐにでも広島での生活は破綻しており、いまの自分はなかったはずです。
その間、そんな温かい支援や心配をよそに音楽や漫画や映画、文学、思想、哲学といったサブカルチャーや友との冒険・旅・恋などにうつつを抜かしまくりました。そんなわたしが大学をやっとこさ卒業して「はい、さようなら~」とはいかないほど多くの人の恩や糧、エネルギーを広島という風土や人からいただきすぎました。少しはこの広島の地に恩を返さないと・・ということで、医者になり数年は広島に残ろうという選択を当時したような記憶があります。(もちろん母校の広島大学傘下の病院での研修のほうがなにかと都合がよいという要因もありました)
こうして医者になった後もさまざまな縁は続き、さまざまな出会いを得て素晴らしい先輩医師(すべてではないですが、ときにレアメタルのようにひそかに輝きを放つ素晴らしい先生がおられました)の方々の背中を追いかけて一人前の医者になっていき、いま縁のできた東広島市の片隅で心療内科クリニックを営むに至ったわけですが、わたし自身もうこの風土と人なくしては成り立たないほどの魂となってしまっており、この数十年間も一年に一度の帰省のなかで、故郷・愛知に戻るたびに、風土の違い、人の違いを感じ、自分がゆったり自分らしく生きていけるのは愛知でなく、広島だと自然に感じるようになったのだと思います。
加えて、先日のクラス会で最後まで飲み明かしたふたりの竹馬の友にしても、現在はふたりとも故郷・愛知を離れ、それぞれ東京や神戸在住であり当地で会うことが中心であり、愛知に帰ってもそこには10代までの自分の影と古い町並みと過去という時間しか存在していません。もちろんそれをたまに帰省して感じることはいい刺激にはなっています。まさに故郷は遠くにありて思うもの・・です。
そんなこんなで、わたしの終の居場所もしくは第二の故郷はいまや広島であり、一番安らぐ場所もこの街です。瀬戸内の温暖な気候も素晴らしいし、よそ者にも優しい中立性の高い優しい人の気風、穏やかな海もあり雪山もありそこそこ街文化のある土地の中庸さも大好きです。(愛知は寒暖差は激しく、よそ者には結構警戒心が強く人見知り強い土地柄であり、これらの点ではほぼ反対と言えます。)
しかし、最初の故郷・愛知はその豊富な生産力(世界に冠するトヨタを生み出した力はいまも健在です)や革新的な創造性(織田信長、豊臣秀吉をはじめ、日本の歴史に革命的変革をもたらした創造の魂を生んだ風土です)は、わたしのこころのなかでは常に生き生きと存在しており、10代の頃人生の初期にそこで生まれ育ったことには今も感謝しており、そこで培った想いやものを考えたり観たりしたことが、今も価値観の物差しとしてこころの基盤となっており、魂の最初の形成は愛知から始まったことは間違いなく、その愛知に加えて現在の故郷・広島での人や土地との出会いを得て、自分は本当に運が良かったとつくづく考え、そのありがたさを噛みしめながら日々を過ごしてるわけです。
長々と書いた割にはまだ言い足りないことばかりなのですが、たまには過去をこんな風に振り返ってみるほどに時間は残酷にも積み重ねられ、わたしもすっかりいい中年おじさんになってしまったのだと笑ってやってください。
そんなこんなで明日からも感謝の気持ちをもって愛知と広島とイタリア?(行ったことはないのですが、憧れの場所です)の間に魂を漂わせ行き交いながら、物理的にはたまの宴を愛知でしつつ、こころとからだはこの広島で生きて精進していこう・・・なんて思っています。まだまだ今も魂ははるかな探求の道の途上であり、努力し勉強し達成したいことはヤマとあるのですから(笑)。
P.S.写真はクラス会後に小学校からの友達・ケタさんとともにドライブがてら訪れた野呂山展望台からの夕景です。箱庭のような瀬戸内の多島美と穏やかな海の風景と静寂が素晴らしく、広島の風土の素晴らしさを表現する有数の場所ではないか・・と常々思っています。