いよいよ師走の12月に入ったばかりの寒い夜に本作を観てきました。2時間30分を超える大作です。前作は映画史に残る名作となっているだけに、とりあえずは観ておかないといけん・・という気持ちで診療が終わったあとの夜、T-Joy東広島に向かいました。
主演はあの「LA・LA・LAND」のライアン・ゴズリングでもあり、それも楽しみのひとつでしたが、主人公のブレードランナーKを見事に演じ切っていました。
前作「ブレードランナー」の舞台は現在のたった2年後の2019年。当時、人類は遺伝子工学の技術で人間そっくりのレプリカント(人造人間)を作っていたという設定です。一方、現実の2017年は人工授精による試験管ベビーの誕生にはすでに成功しるものの、さすがに人造人間製造までには至っていないという状況です。
本作はその30年後、出産できないはずのレプリカントが出産していたという事実をめぐりながら、新型レプリカントであるブレードランナーKと、レプリカント開放をめざす旧型レプリカントとの闘いの記録となっています。レプリカントが自ら出産し、自己増殖できることになれば、人類ともうなんら変わることがなくなるわけで、人間と人造人間の違いとはいったいなんになるのだろう?人間だって、もしや過去になにものかによって作られた存在かもしれない・・・?!という宗教的&哲学的思考にとらわれる作品ですが、映画としてはその内面的葛藤を表現しきれておらず、やや頭でっかちになっており、惜しい作品になっているという印象を受けました。
印象的だったのは、映画のラストシーンでKが深い傷を負い自らの死が近づくのを感じながら、真実が待つステリンの居場所へとハリソン・フォード演ずるデッカードを連れて行き、雪の降りしきる白い世界のなか、徐々に車のなかで息絶えていくという場面となっているのですが、この感触というか肌触りは過去にどこかで・・・と感じていたのですが、後日ふと思い出しました。
それは、あの村上春樹さんの名作「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」のラストでした(この作品は春樹さんの最高傑作と思っているのはわたしだけでしょうか?)。このなかで、主人公が最後に車のなかでボブ・ディランを聴きながら息絶えていく(正確にはこころの内面と現実という外側が融合し昇華していく)ときの名場面なのでした。
おそらく村上作品も映画にしたら、あの内面と現実の葛藤をうまく映像として表現することは難しいはずであり、本作も同じ意味で、まだ映画が文学を十全に表現しきれない分野があるということなのかな~なんて本作により考えさせられたりしました。
そういう意味では春樹さんはP.K.ディックの原作に少しは影響されていたのか?なんて考えたりもでき、それはそれで感慨深い作品なのでした。