インサイド・ルーウィン・デイヴィス~名もなき男の歌~

先日、広島市内でクローズドの講演をする用事があった日に早めに出かけて、この作品を見ました。

60年前後のニューヨークを駆け抜けた実在のフォーク・ミュージシャンの物語です。歌もうまいし、メロディも悪くないのに、まったく売れないルーウィン。それはそうです。彼自身、住む家もなく、行き当たりばったりに複数の女性をはらませたりといった破天荒の生活なのに、それが歌にいまひとつ表現されていないのです。

美しい音楽であるのもの、伝統的すぎ、形式的すぎるのです。もちろんルーウィンに限らず、天才ボブ・ディランが登場するまで、フォーク・シーンではこれが当たり前だったのです。ボブ・ディランを知っている現代の我々からすれば、「こんなかっこいいロックな生活をしているわけだから、それをありのままに唄えばいいのに」と思えるのですが、これはコロンブスの卵のごとくボブ・ディランがフォークの伝統を蹴破り、個人的心情や心象風景を表現し成功したあとのいまだから言えるわけで、当時は誰も思いつかず難しかったのです。

ルーウィンはそんななか、ブルースの本場シカゴまでヒッチハイクで自分の売り込みに出向きながら、即席オーディションでは、彼自身の現実とはかけ離れた伝統的で美しいフォークソングをうたい、「売れる臭いがしない」と契約を断られ、戻ったニューヨークのライブハウスで酔っては過酷な現実にくだを巻き、暴力沙汰に陥る毎日。彼が実際にしているボヘミアン的生活は芸術として昇華されずに、足かせとなるばかり。音楽的才能は十分にありながら報われなかった、名もなき男の人生がそこにありました。

そして運命の神に遭えなかった男をコーエン兄弟が表現した、この映画の胆はラストシーンです。

前夜、口汚くやじった出演女の夫に恨まれ、夜更けにライブハウスの裏でぼこぼこに叩きのめされるルーウィン。地面に打ちのめされたルーウィンの耳に微かに漏れ流れてくる老成した枯れた若い歌声。その声の主こそ、おそらくその日が初めての登場であったであろう、伝説的ライブハウス「ガスライト」でうたう若き日のボブ・ディラン。

神に選ばれた男と選ばれなかった男のすれ違いが印象的な作品でした。