「舟を編む」について

「舟を編む」にて映画修行をしてきました。 原作は少し前によく本屋さんに平積みしてあるのを見かけていました。(昨年の本屋大賞第1位)また松田龍平さんは邦画俳優としては、かなり気になる存在だけに、近作「探偵はBarにいるⅡ」とともに必見の作品だと思っていたので、待望の鑑賞です。

映画というのは見る人によって、いろいろな見方できるし、どんな風にみようが自由だと思いますが、今回わたしがまず、印象的だったのは劇中に奏でられる音でした。効果的な挿入音としてのピアノはもちろん、劇中の主人公が文字を消したり、屑を掃う、消しゴムの音や、ヒロインの料理する包丁の音、編集者が辞書をめくるぬめった音等々。これが、主人公の口数の少なさを効果的に補い、物語を進展させていくのです。画だけでなく、音も主役の楽しめる映画でした。

わたしが仕事柄、やはり気になったのは、龍平演ずる主人公、馬締(まじめ)の言語バカであるにも関わらず、コミュニケーション能力の欠如。その欠如が、かぐや姫を連想させるヒロインとの出会いによって、徐々に補われていくカタルシス。相変わらず対話的コミュニケーションは不完全ながらも、好きな人への想いをエネルギーとした表情や行動を通したそれによって、ヒロインだけでなく、辞書編集部の面々らとも理解しあえるようになっていく。話し言葉としてのコミュニケーションはそれほど進歩していないものの、月日と周囲の理解が主人公のつたなさを支え、彼独特の新たなコミュニケーションが成立しているのです。そうしたコミュニケーション不全の解決へのひとつの糸口を提示するかのような展開に、思わずにやりとしてしまいました。

そして、ラストのほうで、やっと分かり合えたかに見えたヒロイン自身の口から馬締に対して「やっぱり変な人」なんていうセリフが突然飛び出してくる。

そうなのです。変な人でも恋をしてもいいし、好きで興味のある道を貫いていけば、必ず理解者は現れるし、必要十分な人間関係も構築できていくのです。わたし自身も時に人から私的レベルでは「変わっている?」といわれる存在(おそらく自分のことを人と変わらないと思っている人は案外少ないのではないでしょうか)だけに、「世の中の標準から少しずれているかもしれない」という自覚を持つ全てのひとたちに勇気と福音を鳴らしてくれているような気がしました。人がいれば、人の数だけコミュニケーションの仕方はあり、標準的で模範的なコミュニケーションというのは所詮は砂上の楼閣なのではないか?ということを同時に考えさせられた映画でした。みなさんも日頃、無意識のうちに築いてきた、自分の想定する模範的な人間関係というのがあると思います。しかし、それから脱却し、その想定にとらわれないように、日々過ごしてみると結構、肩の力が抜けて気持ちのよい人間関係が営めるかもしれませんよ。

最後に「舟を編む」というタイトルが素晴らしい。この言葉のなかに、

「辞書は言葉という大海原を乗り越えるための舟であり、辞書という舟を編んでいくのである」が集約されています。このコンセプトだけでもとても素敵ですよね(*^^)v

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コメント: 2
  • #1

    シネ丸 (火曜日, 28 5月 2013 11:15)

    「舟を編む」20年近くの作業によって完成した辞書。 でも明日から改訂の日々が続いていく。  特に目標もなく日々の仕事に追われている自分にとって、何か大切なものを教えられたような気分になりました。  松田龍平はじめ個性的な俳優陣の舟に乗ったような自然な雰囲気がとても素敵な映画でした。

  • #2

    fourseasons-clinic (土曜日, 05 10月 2013 16:48)

    日常の生活や仕事の大切さが描かれてましたよね。しみじみといい映画でした。龍平くんはこうした作品でも好演でき、役者としての器がどんどん大きくなりつつありますね。